迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

世界と日本の人種差別について

昨今の世界事情をかんがみると、このテの話はやはり避けては通れない“問題”なんで、一応オイラなりの感覚で書いておこうと思う。なぜ、“人種差別”がなくならないのか?
そもそも“人種差別”の問題には、双方の根の深い“因縁関係”を知っておかなければいけないんだが、大概の場合はその話になった途端“聞く耳なし”な態度で無視されるのがオチである。で、一方的な主張は聞き入れられても、反対意見はどういう訳か“無視”されて、悪人呼ばわりの上“排除”されることが多い。このケースは日本だけでなく、どんな国でも“共通”で行われている“闇の部分”でもある。

一番わかりやすい例として、日本と韓国・北朝鮮の双方から扱いが酷い“在日”の子供達。普通の日本人(この場合は“日本国籍”を保有する人)から、“朝鮮人は(朝鮮)半島に帰れ!!”等と罵られ、同じ韓国・北朝鮮籍なのに実際に朝鮮半島に住む人々からも、“ココはお前らの祖国じゃない!!”等と嫌われる。生まれたのが日本なら、普通なら“日本人”として扱われて当然のハズなのに、双方から“外国人”扱いで断られているのだ。つまり、“変な意地の張り合い”の結果、本来の“祖国”を双方から“奪われた”人種なのだ。
もちろん、日本にはこのほかにも、“部落(同和地区)差別”とか、“アイヌ民族(北海道の原住民)差別”等、細かい部分での“人種差別”が存在し、さらには宗教の違いとかから由来する“宗教差別”すらある。(創価学会に対する“嫌がらせ”も含む。)
しかしそれらの問題を“干渉する”海外の人々にも問題がある。それを指摘できるほど、あなた方の国々では“人種差別”は発生してないんですか?
南アフリカの“アパルトヘイト”でも、中国の“モンゴル・チベット侵攻”も、アメリカの“中東イスラム圏への侵略行為”も、フランスの“移民軽視政策”も、マレーシアの“マレー人優遇政策”も…、決して他人に悪口いえる程、立派なモンだとオイラは思いませんよ。(“マレー人優遇政策”や“アパルトヘイト”は、表舞台では“解決”した問題でしょうが…)
つまり、差別の数だけ“人類は我侭だ”と言えるんです。テロの温床の影には、こういった経緯があると考えるべきでしょう。世代が変わり、これからも人類が発展していくには、新たな“人種差別”を生まない様にするための努力が必要であり、そのための“文化交流”が重要なんです。最初のうちは自分達と“文化・風習”が違う訳だから理解できないのも無理はないが、徐々にその“応用”を覚えることで、相手を理解することだってできる様になるんです。まして、地域や気候が変われば、今までの“祖国の風習”は通用しない訳ですから、変更する事も大事なこと。
仏法用語に“随法びに”(漢字失念)という言葉がある。信仰心に基づいて、布教時に文化や風習の違いを否定するのではなく、基本(正法に帰依する事)はともかく、その他のしきたりや行事に関しては強要しないという発想である。言い方を換えると、“仏前に供える物は、自分ができる範囲の物であれば何でもアリ”だったり、“アクセサリーとして勾玉やロザリオを身に付けてても、別に問題ない”てのがコレであり、それを否定すれば当然ですが、オシャレなんでできませんよ。(オイラの“ヘッポコ怪談話”も、その延長線上だと思っていただければ、幸いなんですが…苦笑)