迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

未来の“自分”に毒吐く者、過去の“自分”に盾突く者

仏法用語には“一念三千”なる言葉がある。これは、過去と未来と現在は、常に同じトコにあるという言葉であり、決してバラバラに存在するモノではないという教えである。つまり、“自分の現在地”を起点として見れば、ほんの一瞬でも時が経てば“過去”となり、その一瞬先は“未来”である。その“一瞬”こそが“三千世界”であり、“一瞬”という“単位”は森羅万象の生命サイクルによっても違う。人間の場合どんな延命処置をやっても100年前後生きるのが精いっぱいであり、最悪の場合は誕生後数秒で死ぬことだってある。(ま、最長寿でもワールドレコードでは120歳ぐらいだし…。)でも、樹木の場合は1000年以上地に根を張ったまま生き続ける場合もあるし、種子のままでも1000年以上は発芽できる可能性を秘めている。まして、この太陽系だって科学上の論説では50億年という長い時間が育んだ世界である。

さて、ここからが本題。では、“自分”より若い人に対して侮蔑する様な発言をする“長老”と、“自分”より年上の人間に対して噛み付いてくる“若者”は、どっちが本当に“尊敬”できる人物だろうか?答えは、“どっちもどっち”である。なぜなら、“長老”から見た“ならず者”は過去の自分であり、“若者”から見た“老害”は未来の自分だからである。そう、いつか通るポジションであり、かつていたポジションであるからだ。
過去に辛い思いをした人は、“自分と同じ目にあって欲しくない”と願うがばかりに、かつて自分が受けた苦難を子孫にブチ撒けてしまう事がある。その逆に“同じ目にあえばイイ”と思う人ほど、なぜか後輩に甘かったりする事もある。その逆もまた然りで、要はそういう事を“どう受け止めるか”で、答えというのは変わるのだ。
加害者の“大罪”を攻める被害者の気持ちは理解できなくもないが、そればかりに囚われて肝心な部分を見逃せば、それが原因で再犯を起こすことだってあるし、その逆に自分が“加害者”になる事だってある。どっかでその“謝罪”を受け入れる姿勢を見せることも必要であり、むしろ場合によっては、自分が責任を持って更生する為の補助をやらなければいけない。つまり、“一緒に歩むこと”で双方の気持ちを理解する事だってできるハズ。一方通行な“論争”は、所詮は“平行線”のままで終わるのがオチだ。
ホリエモンや村上氏がやった事に対して、やっかみを言う“老害”は、目の前にいるのがかつての“自分”だからこそ苛立つのであり、ナベツネや根来コミッショナーに喰って掛かる“ならず者”は、後々の“自分”になり得る可能性が高いから批判を述べる。
なにもこの話は、プロ野球の事だけではない。つまり、“他人”から見れば滑稽な話で、鏡に映った自分の姿に対して喧嘩を売ってる様なモンである。だからこそ、“対話”が重要であり、双方向で物事を考える感覚が必要なのである。その為に歴史を学ぶのであり、活用してこそ初めて正しい“歴史認識”ができたと言える。
正しい認識で過去を“知る”という事は、未来を“知る”手がかりを掴んだのと同じであり、一方的な認識のみで過去を“学ぶ”のは未来を“悲観”する事と同じである。類似事項には、当然ながら規模が違っても同じ様な心理がうごめいている。それを見破らない限り、同じ様な“悲劇”は繰り返される。