迷馬の隠れ家 はてな本館

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今は末世?それとも…

“御書”やあらゆる仏教の教典には、仏法(正法)流布の時間経過を大雑把に、正法(しょうほう)時代・像法(ぞうほう)時代・末法(まっぽう)時代と区切る。正法時代とは、仏法が正しく理解され、その功徳(くどく:ひらたく言えば、その法力によって守られた状況や現象を指す。)が充分に感じられる状況である。で、像法時代とは、信仰心は衰えてはいないものの、宗教としては形骸化した状態。で、末法時代とは、信者や僧侶すら教典や教壇の存続理由に疑問を持ち、信仰が“捨て去られた”状態である。教典にもよるが、この“時間経過”は、1000年単位で区切られ、特に末法時代は先の2000年(正法・像法時代)が終わると、永遠に続くとされている。

つまり、現在の“仏法”は平安時代で既に末法時代に突入してるから、いくら教典を読み返そうが、呪術を行おうが、すべて“無効”という訳である。が、実は法華経はこの“末法時代”と言われてるこの時代だからこそ“希望の光”として、釈尊(お釈迦様)は後世の人々に遺したと言われている。
しかし、さっきも触れたが現在は“末法時代”である。この言葉を真に受けて、法華経をキチンとした方法で教え説く“聖人”がまったくと言って居なかった。鎌倉時代でも、日蓮以外はその取り扱い法も無茶苦茶で、特に(浄土宗系の信徒さんには申し訳ないが…)法然は、法華経の教えがあまりにも難しく、しかも布教するとなると危険が生じる(必要以上に迫害を受ける)とし、捨閉閣抛(しゃへいかくほう:捨てよ・閉じよ・差し置け・抛(なげう)てという意味)して念仏を唱えよと言ったぐらいである。それくらい日本の仏教でも、荒んだ状況なのだ。いわんや他の宗教も例外がなく、キリスト教でもそのことが原因でいくつかの宗派に分かれていて、イスラム教でも同じ様な理由で宗派が違う。つまり、どの宗教もそれ故に、既に“末法”なのである。
だからこそ、その時代の先駆けには、後に“聖者”として崇められる哲学者や宗教家が登場し、その言葉をもって新たな“正法”となって流布するのである。それはつまり、宗教の“原点”をもう一度深く掘り下げる作業であり、それ故に世間からバカにされる部分でもある。だが、そういう人は、どこまでも純粋な信仰心と、たとえ世間に騙されても深く森羅万象の仏生(ぶっしょう)を愛する忍耐力の持ち主であり、そして決して自分からは自分に、あるいは周囲の者に嘘をつかない。しかし、その性分を見抜くのは、たとえ同じ宗教家でも難しいのであり、ゆえに無名であればある程気味悪がられ、危害が及ぶ訳である。
まして、宗教に疎い者の場合、それをこっちがいくら説明してもなかなか理解してもらえず、結果としてヘンな噂を立てられた挙げ句、偏見からくる悪質な差別を受けるハメになる。
同じことはなにも、全く該当がない訳じゃない。現在のプロ野球の状況もまた然りであり、黎明期の頃を懐かしむ輩によって、既に組織そのものが形骸化し、地上波VT中継の視聴率低下やスター級の選手がメジャーリーグへ流出するという事態に陥っている。また、競馬でも血統やレース形態等が単純化し、距離によるファクターやライバル関係等の面白味がなくなり、他の競技への移行や、スターホース&ジョッキー不在で客足が止まる傾向にある。(明日は有馬記念で、“あの”三冠馬が出走するんで話題性は十分だが…。)
大事なのは“時に適う”(“撰時抄”より抜粋)ということ。つまり、何度も言ってるが、権威や過去の実績だけで“胡座”をかかないことだ。歴史を学ぶということは、過去の“自分”に出会うこと。そして未来の“自分”に生かす為に教えを説くことだ。その時に“諦め”を説くか“希望”を説くかは、現在の“自分”が先代の“言葉”を対読(たいどく)し、悟るか否かだ。どんな事例もその“ウラ”は、必ず自分の身の回りに起こっている事柄と直結する。このことを知る術として、“教学”を学ぶのも大事なのだ。
どんなに今の人気を誇る者でも、時代が移れば忘れ去られる運命にある。時に、誰からも愛されてない様な者でも、ふとした瞬間に愛しき者へと変化する。そして、その当時は善かれと思ってやった行為も、時が立てば後悔の念に打ち拉がれるし、その時は責められる状況でも、後年には誉め讃えられることもある。何が起きても分からない時代なら、その瞬間の“揺らぎ”に惑わされず、自分らしく生きることこそ、最高の“幸せ”だったりする。明日は、マーティの“生前さん”の命日。この思いとともに、深くあの日の“悲しみ”と向かい合い、そしてこの決意を胸に、新たな一歩を踏み出そう。