迷馬の隠れ家 はてな本館

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歴史ヲタが宗教を語ると…

久々に哲学ネタです。てか、来月末に青年教学1級試験が控えてるんで(関係者に業務連絡、2月26日が試験日ですよ。去年配布されたテキストは有効ですんで、そのまま使ってください。)、只今マジで“御書”の勉強中です。(ハッキリ言って、古文の授業よりムズい…orz)
ま、(学会員故に)嘆いていてもしゃーないんで、真面目に“御書”について勉強すると、日蓮(何度も言うが、学会員なら“大聖人”と付けるべきだが、歴史を取り扱う関係上、“敬称略”させてもらう。)という僧侶はある意味“歴史ヲタ”としか言い様のない人物だったんだと考えさせられる訳で、そういう意味ではオイラも(これでも一応)短大で日本史を専攻していた関係上、同類のニオイを感じる。では、“御書”を学ぶ上で、その言葉のウラを知るには、どうすればいいのだろう?

答えは簡単、“御書”を記された時代を、現在の事柄に“置き換え”てみるんです。つまり、“歴史は繰り返される”という法則を利用して、その“御書”に書かれた“御金言”(要は、教訓や事例等)を検証すれば理解しやすい訳である。なぜなら、彼が“歴史ヲタ”として仮定すれば、何であらゆる教典や故事を用いて“御書”を表したのかが分かる訳で、相手もまたそういった知識を持っているからこそ、日蓮が示した法華経に関する“意義”を理解する事ができた訳である。
もちろん“御書”にも様々な教えが書かれていて、実んトコ言うと内容によっては、思いっきり矛盾する事が書かれてる事もある。しかしそれは、その“手紙”(“御書”の殆どは、質問や相談の手紙を書いた信者や門下生に対して宛てた返答であり、権力者宛の論文とかは稀である。)の相手がどのような職種や身分だったかで教えを使い分けただけであり、そういった面では“法華経は理解し難い"という言葉以上に難解な訳である。
つまり、相手の知能レベルや信仰心に合わせて、教えを説くための参考資料や既成事実を選んで返答してるのであり、後世のオイラ達が何の知識なしで一気に読むと難解なのは無理ない話で、だから座談会(定期的な地域毎の集会)で歴史背景を学びながら“御書”を解読しながら現在の生活の教訓として“活かす”事が重要なのである。だから佐渡御書でも“抄受と折伏は時による”と解かれていて、撰時抄でも“時に適う”として今までの経緯を解説してる訳である。いわんや今回の試験範囲である“観心本尊抄”(“かんじんのほんぞうしょう”と読む正式名称はかなり長ったらしいが…。)でも、この件に関してはキチンと解説してるのである。(だから“法本尊開顕の書”ともいう、ちなみに“人本尊開顕の書”とは“開目抄”のこと。)
こうやって生意気にもオイラが“御書”を解説するのは、本来なら教学部長以下幹部クラスに対して無礼な話だが、一般的に創価学会の基本理念の根幹を学会員以外の人が理解しようと思うと、説明する側にも多少の柔軟性は必要となる。コレは、どの宗教を布教するにしても重要な話であり、あまりガチガチに“正義”を振りかざして自分達を正当化するのは、ある意味“邪見”であるとオイラは思っている。何事も、まずは興味を示し、相手が相手なりにこちらを理解しようと努力している事を分かってやらないと、結局は世間と同じ様に“チカラ”だけに頼りすぎて、宗教本来の意義が歪曲されるだけである。