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“三類の強敵”ってなに?

今年の“哲学独り言”は基本的に、“教学”をやる上での基本中の基本である仏法用語の意味とその実例をちょこっとやっていこうと思う。で、早速の話だが、今回はタイトルにもある言葉、“三類の強敵(ごうてき)”の意味を解説しようと思う。ややこしくならない様配慮はするが、オイラもあんまし生意気に“講義”を行える立場じゃないんで、説明がヘッポコかもしれんが、“話のネタ”としてつき合ってくれ。

“三類の強敵”とは、法華経を行ずるもの…つまり宗教を真剣に広宣流布しようとする者ならば、その教えが正しいほど現れるという思想破壊をもくろむ輩で、身分や立場上で3種類に分類できる。
まず最初に現れるのが“俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)”というカテゴリーの人々。平たく言えば“理解を示さない一般人”を指す言葉で、こういう人達は世間で流れる噂や虚偽を信じてしまい、宗教をやってる事を話すと途端に態度を硬化させ、つき合う事すら毛嫌うクセがある。また、他宗派の信徒ゆえに、自分達の宗派の教えが正しいとして話を聞いてもらえないケースもある。(この傾向は過去の因縁の影響もあって、特に浄土宗系の信徒さんに多い。また、キリスト教徒とイスラム教徒の話し合いも、この傾向故に平行線で終わる事が多い。)つまり、相手の“純粋な気持ち”を理解できないがばっかりに、自分のことを批判されたと勘違いして攻撃的になる様で、キチンと相手の話を聞く姿勢さえ持っていれば、スグに理解を得れる様になる。つまり“相手の目線でモノは言え”なのである。
次に現れるのが“道門増上慢(どうもんぞうじょうまん)”というヤツで、ある意味“同業者”の悪口合戦で、この類いの場合は、なまじっか知識があるが故に“水掛問答”になりやすい。平たく言えば、“カルト化した状態”で、意外と世間知らずな部分が多い。これも話さえ聞いてくれれば理解してはくれるんだが、なにぶん立場上、相手に対して態度が高圧的になりやすく、批判されるとプッツンされやすいのが難儀。また、自分トコの考えを良く見せようとして、相手をイメージダウンさせる為に比較したがるのもこういった人達である。(よくある例が、某討論番組で人の話を聞かずにヒートアップする罵り合いである。)
最後は“僣聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)”というヤツ、この場合が一番難儀な訳で、肩書きだけで相手を威圧し、持てるチカラすべてを持って相手を“抹殺”しようとする人達を指す。つまり財界人や政治家等の肩書きがある者が、自分が気に喰わない相手を部下に命じて殺させるといった“自分は手を汚さず、相手を蹴散らす”という、立派な肩書きもかすむ程なんとも汚いヤツである。また、階級が高い(世間から見て“エラい人”)モンだから自分と他人は同じ“人間”である事を忘れて、批判してしまう“恥知らず”でもある。こういう人を説得させるのは一番難儀であり、自分の過ちに対して一切謝罪せず、それどころかその罪を部下や仲間に押し付けて逃げようとする卑怯者でもある。つまり、登り詰めた地位を保持しようと必死になり過ぎて、自分が“人間”である事を忘れたバカでもある。(判りやすいのが某建設会社の社長であったり、某新聞会社の社主だったり、某ファンドの役員だったり…書き出したらキリがない。)
これらの“障害”は布教活動を行う時だけでなく、一般世間にもいる部分で、どんな分野の仕事や活動でも必ず現れる。それをひとつひとつクリアして、初めて世間がその分野を認知する様になるのであって、その過程を踏まえずに大きくなった企業や組織は、必ずといって滅びやすい。また、そういったら歴史をしっかりと学ばずに組織の運営に携わろうとしていると、それが原因で組織が“空中分解”してしまう事になりかねない。末端の信徒や社員だけでなく、組織のおエラもまた然りで、一番エラい人が他人との接し方に関して“お手本”を見せない限り、その配下も“おバカ”になってしまう。
実は“三類の強敵”の教えは、ある意味、帝王学の礼節の部分と相通じる部分でもある。だから、幹部役員がダメな組織は、部下もダメダメであり、国主がバカだと国民もバカにされる。いわんや親がしっかりしてない家庭では、子供もそれ故に批判される訳であり、教師が授業を放棄するようじゃ、生徒も自分から勉強しなくなる。ま、ココらへんは後日説明するとしますか。