迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

生き急ぐ若者、世間を恐れる老人。

今日オイラんちの近所の踏切(車両西行き一方通行)で、朝っぱらに人身事故があった。なんでも、ばあさんが遮断機くぐって横断してたらしい。警笛に気付いた工場の作業員や通行人が懸命の救助を行って、どうやら一命は取り留めたらしいが、様子からして“自殺未遂”らしい。こういった高齢者の自殺(しかも線路侵入によるモノ)が相次いで、鉄道各社(JRのみならず私鉄も)が頭を抱えている。また、そのような事態に“追い込まれている”高齢者が多い様な気がする。
また、ホームレス相手に八つ当たりする未成年が増えた様な気もする。去年姫路であった火を使ったホームレス殺害は、現場近所の高校生がヘンな因縁付けて、火炎瓶で襲撃したモノという事が判明した。確かに、ホームレスの存在は街の景観や印象を悪くする原因だが、彼等をココまで追いやったのは、いうまでもなく世間であり、“リストラ”の名において行った“人員削減”が招いた弊害でもある。ちょっと考えればわかるのだが、すべては“いつ、自分がその立場になるかわからない”という不安が増長し、自分でも“何をして良いかわからない”という状況で、それを脱却しようと思ったが為に取った“軽率”な行動が、思わぬ事態を招いているのだ。

“御書”には人生を切り開く“カギ”が書かれているのだが、その言葉すら信じようとしなかったツケが、今更ながら噴出してる様に思える。“何をやっても上手く行かない”のは、今自分がやっている行為が相手にどう思われてるか理解できてないからであり、“自分は不要なモノ”と勝手に思ってしまってるのは、自分以外の周りが見えていない証拠である。
アメリカのある精神医がこのほど、“ブサイクは犯罪者になりやすい”というデータを発表したが、この“ブサイク”の基準は、何をもって言っているのだろうか?
法華経”の方便品には、“十如是”(じゅうにょぜ)という教えがある。確かに、“相如是”(そうにょぜ)が一番最初に出てきてるが、コレは初対面の相手に対して“心理を知る”手がかり程度でしかない。つまり、“見た目ブサイク”だからといって、犯罪者になるとは限らない。むしろ、“ブサイク=犯罪者”と決めつけてる“偏見”が相手をそこへ“追いつめてしまってる”からそうなるのであり、実情を知る為には、キチンと接していかないとわからないものである。実際、顔や身体だけで能力が判断できるなら、最初から“ブサイク”になるDNAを排除する科学的処置が施されていてもおかしくはない訳であり、その逆だから出来なくて当然なのである。
つまり、目の前の“ブサイク”は、自分の心情が相手の姿を通して見えるから“ブサイク”に映るのであって、決して相手の“本性”ではない。世間が息苦しい社会になったのは、自分自身が抱えている“宿業”(しゅくごう:生まれながら持ってる、前世からの因縁)から“避けている”からしんどいのであり、決して他人のせいではない。
忘れてはいけないのは、どんな姿であれ、必ず自分の援護を必要とする場面は来るのだから、どんな事があっても、(一時的に嘆いてもかまわないが)諦めてはいけない。ホントに不要な存在なら、最初から“自分”が存在するハズがない。現に、オイラのBlogでここ最近だが、検索で“組織のあり方”だの“人材育成”だのでココを知った閲覧者がいるらしい。(検索アクセス数で、そこそこあるんで…。)つまり、オイラの“へっぽこな哲学”でも必要とする人がいる限り、オイラはそういう人達の為に存在してると感じている。肝心なのは“こころ”であって、見た目や学歴、さらには肩書きなんかじゃない。実績なんてのは、専門分野を長年やってたら身に付くモンであり、誰もが最初から“専門家”(ヲタク)だった訳じゃない。だから、自分の知らない知識があるなら、それを学ぶ上では“若者”として振る舞えばいい訳であり、専門分野のヲタならば、そういった“求道心”ある者に対して“長老”となればいいのである。そこには、実際の年齢なんてのは関係ない。ようは、知らない事は一緒に学び、知ってる事は一緒に研鑽してみる事が大事であって、そういった事を否定する者は、結果的に自分自身に嫌気がさして、すべてを失う事になる。
教訓:目の前の“自分”を否定するなら、自分もまた同じ道に迷う。