迷馬の隠れ家 はてな本館

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“宗教”を語れば“カルト”になる?!

よく勘違いされる話だが、“カルト教団”として創価学会を認識してる方も多いのではないかと思う。しかし、創価学会に限らず、“宗教”というのは大なり小なりの“カルト”な部分は、何らかのカタチで必ず存在する。例えば禅宗系の座禅行や浄土宗系の念仏等、基本的な“おつとめ”は、(失礼ながら)ハタから見たら“異常”である。(学会員の“勤行”や“折伏”も含む。)しかし、信者や聖職者にとっては、こういった行動は生活の一部であり、毎日欠かさずやる事によって精神的に鍛え上げられ、どんな事が発生しても動じない。つまり、宗教上の教えが精神的な“拠り所”であるがため、その行動が他人から批判されると、侮辱されたと感じる訳である。

最近の犯罪の傾向には、“他人の痛み”が理解できない“病んだ世界観”であるとされている。しかしそれはあくまで、精神医学の世界からの観点で語られる部分であり、決して“痛み”を忘れてる訳ではない。宗教の“既成概念”に囚われている様では、決して解決できるという問題ではなく、むしろ“避けてきた問題”だったから、だれも“痛みの本質”を教える事ができなくなっただけである。
イジメがなくならないのは、イジメられっ子だったオイラだからわかるんだが、イジメる側の精神的な痛みを受け止める相手がいない限り、永遠に繰り返される悲劇である。つまり、何らかのカタチで周りの大人に“構って欲しい”というイジメっ子の精神的な信号である。つまりそれは、顔面にビンタを喰らったり、原稿用紙10枚以上の“反省文”を書かされる等の“罰”を受けたいが為の行為であって、見つかったらヤバいとかの類いでは無い。しかし、最近の生活環境を考えると、まず大人が子供を“監視できない”状況にあると考えると、イジメを発見できなくても“当たり前”になってしまう。従って、そういう現場を体験した事のない子供が親になる訳だから、“叱る”という本質的な事を自分の子供に施すことなど不可能となる。
こういった“精神的な教育”を、今まで世間全体が(近所付き合いなどで)やってきたことを肩代わりしてるのが“宗教”だと捉えると、各宗派が抱える哲学に基づいて“指導”が行われているから、在籍する“集団社会”の中では年齢や立場を超えて纏まることができる。しかし、そういった“狭い空間”ならともかく他宗派や異文化の人々を受け入れるのは、相当なる偏見や誤解、さらには無知故の“拒絶・差別”という捻れが生じる。結果、この“イジメスパイラル”は、延々と続いてしまうのだ。
大切なのは、自分の気持ちや痛みを理解してもらう為には、まず相手の気持ちや痛みを理解してやること。言い方を変えれば、以前“犯罪黙示録”でも書いた通り、“目の前の自分”に気付いてやることである。創価学会が提唱する理念のひとつが、この部分である。“人間革命”とは、“相手の中の自分”と“自分の中の相手”を救済する為の哲学であって、決して“カルトまがい”な宗教論ではない。だから神仏に“他力本願”するのではなく、自分の概念を変えることで相手の痛みを知り、それを通して相手の境涯を変貌させる…つまり、“折伏”を行う訳である。だから元来の“折伏”とは、堕落している宗教を糾す為のモノであって、信仰に対する批判や文化の否定ではない。むしろ、価値観が違うのは当たり前なのに、それを批判されて相手が激怒するのは当たり前であり、自分が傷つけられるのも無理ない話である。そういったことを教えてくれる“オトナ”がいないのは、世界全般からして危機的状況である。
もっとも、こういう事を語るオイラ自身が“カルト体質”だから、説得力はないんだが…。(滝汗)