迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

スポーツに国の威信を賭けるのは良いが…

昨日はスイマセン。急に仕事が忙しくなって、気付いたら日付がかわってました。(苦笑)
さて、連日の様に報じられたWBCが終わり、今日からセンバツが、明後日からはプロ野球(パ・リーグ)開幕という、まさに“球春”真っ盛り。
しかし、ちょいと報道の中には、“嫌韓”というか、明らかな差別表現とも取れる報道が目立つ様な気がする。その最たるモノとしては、2次リーグで韓国が日本を降したとき、その喜び(てか、日本を倒した事による勘違い)をあらわにする様に、ウィニングランやマウンドに国旗(太極旗)を立てて、日本をバッシングしたという報道である。
確かに、日本は韓国(というより、朝鮮半島)の人々に対して、常から侮蔑した態度を取る習性がある。事の発端はおそらくだが、明治以降の政府が何かに付けて朝鮮半島を“侵略”しようと画策し、それを実現させたが為の悪癖だと、オイラは思っている。(歴史をちょっと学んだら、ここいらヘンの事情は理解できるが…。)
しかし忘れてはいけないのは、野球の神聖なるマウンドで“やってはいけない事”をやった報いとして、アメリカの“野球の女神”が韓国チームにそっぽを向いたから、肝心の決勝トーナメントで“弱小チーム”日本に負けたのだ。

以前オイラが書いた様に、“襟を糺してモノは言え”とは、まさにこの事である。イチローが憤りをあらわにしたのは日本人としてではなく、“メジャーリーガー”としてその神聖なスタジアムの真ん中に“国旗を立てる”という“蛮行”を許す事ができなかったから、試合で結果を残せたのである。(コメントは確かに“日本代表”としての発言だが…。)もちろん、韓国人メジャーリーガーは韓国代表にもいたハズである。しかし、彼等はこの行為を止めようとはしなかった。そう、“韓国代表”という肩書きで我を忘れ、これがいかなる行為なのか、まったく理解してなかったのだ。
つまり、メジャーのスタジアムでやった“あの行為”は、たとえ日本人でなくても、野球(というより、“Baseball“という球技)を“侮辱”した事に変わりはないのだ。だから“相手より強い”という傲慢さがチーム全体に油断を生み、結果的に予選でボコボコにした相手に、肝心の決勝トーナメントでボコ負けしたのである。
いかなる勝負事でも、相手は自分より弱いという“慢心”で挑めば、結果的に致命傷を負うハメになるのは当たり前であり、“勝って兜の緒を締めよ”という古いことわざが示す様に、どんな相手でも万全を尽くしてこそ初めてその戦果を誇れるのである。逆に言うと、狩りに出た肉食獣が自惚れて、“家畜だから”と相手をナメて襲ったら、エサになるハズの相手に蹴飛ばされる様なモンである。(実際アメリカであった話で、ホーストレッキング中にピューマが襲いかかってきたが、鞍上の飼い主を守るためにサラブレッドが、その飛びかかって来たピューマを“クロスカウンター”で蹴り殺したそうなw)“平家物語”でも、絶対的権力で平清盛を頭とする平家の者達が日本を支配していたが、その傲れた態度が堕落を生み、結果的に源頼朝率いる源氏の軍勢に討ち滅ぼされた。
“心こそ大切なれ”とは、要するにどんな相手であれ、自分がとる態度ひとつで相手の心に変化を持たせることができるという事。こっちが相手に対する過去の恨み辛みを、たとえ持っていても表面に出さなければ、これ以上の“悲劇”を食い止めることだってできるし、そういった“悪癖”をも包み込んで丸ごと愛してやれば、かえって相手も自分の“悪”に気付き態度を改めることだってできる。もちろんその逆もまた然りで、こっちに悪意がなくっても、どっかで見下してるようだったら相手も自分をそういう風にしか見ないし、どんなに仲が良くっても、相手に対して欺瞞を抱くと、どんな言葉も信用できなくなる。
今後韓国において、世界を席巻する様な“大国”になるには、日本がとった様な相手を侮蔑する様な態度をマネてはいけない。いわんや、日本を“見下したい”のなら、日本を倒すこと“だけ”に拘ってはいけない。むしろ、傲慢になりすぎた欧米各国を“潰す”つもりで精進しないと、日本どころか中国やインドなどの“第三国”に負けることになる。それは何も野球だけでなく、すべての分野に言えること。本気で臨まないのならそれ以上の成長はなく、かえって日本人からバカにされたままで終わってしまう。
忘れてはいけないのは、国際大会の舞台で、たとえ“憎むべき”日本を相手にして勝ったとしても、場所をわきまえて騒げない様だと、それが遠因となって自滅するハメになるという事。もちろんそれは日本人でも同じ。どんなに相手が弱くても、試合に挑んでくる限りは、こっちも全力で戦ってやる事こそが相手に対する“礼儀”である。そして、戦いが終われば相手の健闘を讃え、敗者は勝者に“希望”を託し、勝者は敗者のエールに答えてこそ、真の王者となるのである。