迷馬の隠れ家 はてな本館

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謎学ラジ関探偵局(その4:電リクの謎)

今回の“我等ラジ関ジェネレーション”月間も最終週です。今回はかつて、CRKの“看板番組”だった電リクに関する“謎”です。開局当時(正確には、その年のクリスマス)から70年代までナイターオフ(プロ野球中継休止期間)シーズンの“定番”だった電リクは、まさにCRKのレコードライブラリーをフルに活かした番組でした。が、実は“卵が先か鶏が先か”な話で、なんで“電リク”をやったのか、かなり気になりますよね?

以前の“我ラジ”(まとめサイト参照)でも紹介したが、開局当時の目玉は、民放初のプロ野球中継でした。しかし、当時はドーム球場なんてモノがなかったんで、雨天で試合がすべて中止になる事なんてしょっちゅうでした。そこで、その時間を埋め合わせる番組を、予め用意する必要性がありました。当然ですが、当時は録音機材が高価で、放送用としては一般的ではなかった事ですから、すべて生放送で対応していた訳です。しかし、プロ野球には(現在でもそうだが)オフ期間があって、通年でやってる訳じゃないんで、そのオフ期間時の番組をどうするかが、開局時の“難題”でした。
他の民放ラジオはシーズンに関係なく、ラジオドラマや演芸番組などを放送していたんで、どうしてもCRKとしては他局との“差別化”を図りたかった。そこで、その実験としていろんな番組をオフ期間に試してみた。そのひとつがクリスマス限定の電話リクエストだった。
当時は未だ、そんなに電話が普及していた訳じゃなかったんだが、飲食店や銭湯など“公共の場”には公衆電話があった。だから、専用の電話番号はリスナーが憶えやすい番号にして、なるだけ多くのコールバックを番組で呼びかけた。すると、物珍しさも手伝って、当時としてはものすごいコールバックがスタジオ副調整室の片隅に設置した電話に殺到した。これを機に、ナイターオフは電リクが“定番”となったのである。
そして60年代になると、パ・リーグ中心で低迷が続いたナイター中継を休止し、通年で電リクを放送する様になったのである。しかし、洋楽中心とはいえ、レコードライブラリーにも限界があり、またリクエストに答えれば答える程、放送に乗せる為の“著作使用料”を払わないとダメだったんで、番組内で自由に音楽をかける事ができなかった。当然だが、いくらリスナーには人気があっても、番組にある程度のスポンサーが付かなければ、存続はムリだった。(ここいらヘンは“まとめサイト”参照)
しかし、この電リクの“経験”は、意外なカタチで役に立ったのだ。そう、あの阪神・淡路大震災の時、受信専用回線だったのが幸いしたのか、単純で憶えやすい電話番号と電リク時代に電話しまくったリスナーが多かったのか、震災発生後すぐに次々と、安否に関する事や救援物資の情報などを伝える為の“窓口”となったのである。
現在はWebによるメールフォームでのリクエストが主流となり、番組も録音モノが増えたが、“電リク”というスタイルの番組は、リスナーと放送局の距離が、かなり密着した感覚で楽しめたモノでした。(ちなみに、今でもFM802では夕方に、現在でも電リクを放送してます。)