迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

この世に“逃げ得”はありまへん?!

阪神電鉄株を売りたくないからと言って、阪急ホールディングスや多くの財界人を“敵”に回してる村上ファンド。で、ダダ捏ねた挙げ句にシンガポールへ“逃亡”でっか?確かに、事業法人の拠点を海外に移すのは大いに結構だが、それは逆を言えば、自ら故郷(祖国)を“捨てる”様なモンである。いくら“日本経済が幼稚だから…”と言って、今までの利益を故郷に“還元”せずに逃げるのでは、言葉が悪いが“ユダヤ人の苦悩”と同じである。(詳しい解説は避けておくが…)

何もコレは経済だけの話ではない。要するに、自分が“人間”である事を忘れて、まるで“神様”気取りでいる態度は、いずれ自分を苦しめる“運命”から逃げ切る事ができなくなるということである。仏教ではこのような生命(いのち)の営みを“六道(ろくどう・りくどう)”と言って表す。
その“六道”とは、
地獄(じごく):要するに、ドン底の生命観。無気力にして“何をやってもムダ”と思い込む。借金や大病等、とにかく不幸の連続で足掻く程苦しい状態。
餓鬼(がき):要するに、貪る。食べ物でも金銭でも、とにかく欲しいモノは何でも手に入れないと“幸福”を感じない。良い意味でいえば“求道心”だが、この場合は“物欲”がメインの生命観。
畜生(ちくしょう):要するに“焼肉定食”…もとい、“弱肉強食”の生命観。財力権力暴力等、とにかく“チカラ”でモノをいわす。
修羅(しゅら):要するに、イカサマの生命観。虚勢を張ったり嘘を言って相手を騙す。さらに相手の弱点を見いだすと、そこを徹底的に攻撃するセコい生き方。
人(にん・ひと):俗にいう“人間”というポジションで、冷静に自分を見つめ直せる生命観。ま、“ヒトの振り見て我が振り直せ”な状況。ただ、相手に感心がなかったり、こっちが無視すると…なんだが。
天(てん):喜びの生命観。但し、あくまでもそれは“一過性”のモノで、開放感がある一方で虚しさを感じると居心地が悪くなる。
つまり、この6つの生命観…正確にいうと“生命感情”が、まるで“メリーゴーランド”の如く目紛しく変化するから、“六道輪廻(ろくどうりんね)”と言う。
ま、通常の仏教(この場合は浄土宗系)での解釈だったら、人間はこの状況からの脱却は“不可能”と教えるんだが、創価学会(てか、日蓮大聖人)の解釈では、法華経を行ずる事で“仏界(ぶっかい:仏の境涯)”まで達すると説かれる。ちなみに、仏界までの間には、
声聞(しょうもん):宗教哲学を見聞して学ぶ生命観。
縁覚(えんかく):正法にめぐり逢える“縁(えにし)”を得る生命観。
菩薩(ぼさつ):誰か(世間)の役に立つ事で、自分を向上させる生命観。
の“三聖(さんしょう)”があると考えられている。コレと仏界、六道を合わせて“十界(じゅっかい)”の生命が誰にでもある。
が、残念な事にコレをキチンと説いているのは、他宗派では皆無に近いと言っていい。学会員でも、ココいらへんを解説しようとなると、自らの実体験を述べるので精一杯である。こうやってBlogで解説するのも、ある意味“声聞・縁覚”の二聖の生命観がオイラに出てるからであり、それ故にエラそうに他人を批判してるのは“修羅”の生命観で相手を“見下してる”からである。つまり、この時点でオイラは、ユダヤ人や他宗派の信徒からバッシングを喰らっても、文句を言えた立場じゃない事になり、それだけの“業(カルマ)”を背負う事になる。言い換えれば、その宿業(しゅくごう:前世から続く罪)は生きている以上は逃れられない。しかし、一人ひとりに語り、自分の思いをキチンと伝えきる事で相手も理解してくれる訳だし、自分に思い当たるフシがある以上、いつかは同じ目に遭う可能性はあるって事。
物理的に“逃げる”事はできても、その“代価”として“何か”を失うのはすべての理(ことわり)である以上、いつかはそれ故に苦しむ事となる。そしてそこからは、決して逃れられない。だったら“真っ向勝負”を受けて立つ事で、すべてをチャラにする事だってできる(ハズ)。そこに気付いて行動するから、“人間革命”を達成させる事は可能なんです。だが、そこから逃れたいと願うなら…その“代価”は人間である事を“放棄”する行為なのかも知れません。