迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

人間が“にんげん”でなくなる時…

前回、仏法においての“六道輪廻”と四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)について、オイラなりの解釈で説いた訳だが、では、“仏法”とはコレ如何に。正しい解釈とはいえないが、それは、どんな身分・種族・宗教徒であろうと、“人間”である限りその生命感は誰もが等しく持っているモノであるって事に立ち戻る術が“仏法”である。と、オイラは考えている。その究極の教えが“法華経”であり、それに従った行動(折伏・啓蒙・勤行等)はすべて“仏道修行”と捉えるべきではないかと思う。
しかし悲しい事に、たとえ頭でそれが理解できても、それ故の“驕り”で自分が“人間”である事を“忘れてる”事が多い。つまり、“人間”である事が当たり前すぎて、自分で“再確認”しようと思わない(したくない)から、殺人も強奪も“平気”になってしまう。また、宗教というのは、救いを求める民衆に対して僧侶や寺院が、職業や身分で差別してはいけないと厳しく戒められてるにもかかわらず、“893だから”とか“貧乏人だから”とかで門前払いしてる光景が、しばしば見かけられる。コレこそ、人間自身が“にんげん”である事を忘れ、世間体や地位にこだわり過ぎて“本分”を見失った姿である。

よくよく考えたら解るが、いつから霊長目ヒト科ホモサピエンスを“にんげん”と呼ぶ様になったのか。生物学上で言えばオイラ達人間も“サルの仲間”であって、決してそれだけで“にんげん”とは言えない。すがたカタチは“人間”でも、それだけでは“にんげん”とは言えない。“ヒトとヒトとの間”という(心理的な)空間があってこそ“にんげん”と言えるんであって、そういった“温かな血の通った”コミュニケーションが通じないと、それが決して“にんげん”とは呼べない。
逆に、“ヒト成らざるモノ”である家畜(ペット)とコミュニケーションが取れ、お互いの生存権を分かち合えるのであれば、それはれっきとした“にんげん”としての営みであり、故に“相棒”が亡くなれば悲しいし、寂しいと感じる事だってできるのであり、良い事があれば一緒に喜んでやる事だってできる。例えば競馬の世界でも、成績が向上しないからという人間側の都合で“主戦騎手の変更”をやろうとしても、馬はそれを承知せず、本来の“相棒”に鞭やヘルメットを渡そうとする事がある。(ex:つい最近だと、ナリタトップロードの“逸話”が有名。)また、鞍上の騎手が落馬する事故を起こした時に、自分の事より“相棒”を気遣い“殉職”する場合もある。(ex:一番有名なのがキーストンの話。ホクトベガもコレに近い事をして殉じた。)
こういった話を聞くと、むしろ“畜生”であるハズのサラブレッドの方が“にんげん”らしく見えて仕方がない。逆をいえば、“殺人なんてガラス窓を壊すのと変わりない”とか、“殺す事に快感を自覚した”なんていってる輩には、既に自分を人間以外の生命(例えば“死神”とか)と思い込んで、“にんげん”である事を“自ら捨ててしまった”としか言い様がない。むしろ、自殺する勇気すらない“臆病者”の発言だ。(もちろん、自殺をする事自体は、他人に多大な迷惑をかける行為だし、遺された者達が気の毒だから、やってはいけないんだが…。)
どんな“身分”であれ、出身地がどこであれ、それらはすべて自然界の大きな“ゆりかご”の中では“平等”な立場である。また、過去の罪は問われても、将来も同じとは限らない。本来、“にんげん”であることに気付く為の“宗教”である以上は、相手に対して“批判”はしても存在すら“否定”するのは、大きな間違いである。例え、“資金集め”が目的だとしても、悪用しているのは相手であり、自分達も“被害者”である事はいうまでもない。が、自分達が関与しているなら話は別。“信頼回復”よりも悪評の方が勝ってしまう現代社会においては、“連帯責任”を負うのは免れない。しかしそれも“御仏の思し召し”と受け止められる胆があるなら、むしろ相手の方が謝罪してくるハズである。そう、本当の“悪”は自分であるという事…つまり、そういった部分も含めて“にんげん”であるって事に自覚すれば、自然と“自分”というモノが見えてくる。それが“にんげん”っていうヤツなんです。