迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

因果は巡るよ、どこまでも…。

昨日の夜、なにげにCSの洋画専門チャンネルでやってた“パッション”を見てた。クライマックスのゴルゴタの丘でのシーンだが、イエスが十字架にかけられ“無実の罪”で殉教する前に、呟いたセリフ“神よ、この者達を救いたまえ…”には、ある種の“愛”を感じた。一人前の宗教家なら、当然の心構えである。例え異教徒と言えど、救われるべきは多くの“民”であって、権威や軍事力による支配者ではない。また、謗法(ほうぼう:正法を誹謗し、その教えを自分勝手に改悪する行為)を犯してる自覚が無いからできる事であって、相手を敬う気持ちや、他民族でも理解してやろうと努力する者が、自己保身の為に先駆者を“罪人”として権力者に突き出す行為は、のちのち忘恩(ぼうおん:相手の恩を忘れた)の咎を受ける事となる。
ゆえに、ユダヤ教の民はイエスを“殺した罪”を、エルサレムに住んでたすべての民が受けるハメになり、祖国を追われて流浪したと考えると、イスラエルの諸問題はある程度理解できると思う。また、一人のユダヤ人教師が、教え子の一人が描いた絵を批判しなかったら、おそらくドイツを中心とした欧州での“ユダヤ人狩り”は行なわれなかったかもしれない。またその教え子も、その事を根に持ったまま政治家にならなかったら、おそらくドイツは(一時的とはいえ)東西に引き裂かれる事は、無かったかもしれない。

仏教、特に日蓮系宗派の中では、一つの謗法で4つの“罰”が下るとされている。その罰とは…
1:総罰(そうばち)、世間全般に余す事無く落ちる罰で、一家離散から国家滅亡、さらには地球規模での“災難”を指す。
2:別罰(べつばち)、個人(個体)レベルで落ちる罰で、タンスの角で足の小指を骨折する様なモンから、全財産没収(!!)まで様々。
3:顕罰(けんばち)、他人から見ても明らかにイヤな思いをする罰。交通事故に巻き込まれたり、空き巣に入られたり…
4:冥罰(みょうばち)、目には見えないが、水面下で進行する厄介事。アスベストによる健康被害(中皮腫)等の“公害”は、まさにそれ。
それらはすべて、正法(法華経)を行ずる者をバカにし、時に権力で弾圧したり、世論統制を強いてイジメることによって生じるとされ、正法に帰依する者は、これらの罰は軽減されるといわれている。
さて、現代社会を見渡すと、コレと同じ行為が多々見られる。例えば、自分達がやった“悪業”を社長や部下に擦り付けてる経営幹部、大量殺人をしていながら、“世間が悪い”と開き直る死刑囚、“増税反対”を訴えながら、公的機関によるサービスを過剰に要求する市民団体…。これらの人々にすべて共通してるのは、“忘恩”という概念である。つまり、“自分さえ良ければ…”なのである。そういう人達がいる限り、政治は混乱するわ、財政が改善されないわ、法律は厳しくなるわ…で、庶民の生活そのものは“地獄”に堕ちるのである。もちろん、反対意見があるなら、その為の“対案”ってのを示すのがスジなんだが、そういうのをせずに、ただ“ゴネてる”だけだから、生活が苦しくなるのである。
だからこその“意識改革”が必要であり、その為に最近のキリスト教信者やイスラム教徒がSGIの活動に着目し、自分達の行いの“見直し”をしている訳である。ま、それでも戦争が終わらないのは、そのウラで牛耳ってる“財界人”が政治や思想を“操ってる”からとしか、言い様がないんだが…。