迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

勝負師に向いてる生き方。

昨日のバラエティー番組を見てて、あるコメディアンコンビのカジノ(ルーレット)一発勝負で、チャレンジャーである男性の表情を見て、オイラなりに“ああコイツ、ギャンブルに向いてねぇ〜”と思った。案の乗、ソイツは有り金全部スッてしまった訳で、相方の女性は涼しい顔。事実彼女は、遊び半分で掛けたチップが倍増して戻ってきた。オイラ的に見て、彼女の方が、ギャンブルをやる為に必要な度胸は据わってる方だとは思う。ギャンブラーというより、“勝負師”ってのは、いかなる逆境や困難に遭っても、静かに笑ってやり過ごせるだけの度胸と根性がなければ無理で、大金を手にしてビビったり、負けた事ばかり考え過ぎる様では“失格”である。

宗教でもまた然りで、過去の“予言”や先代の“教え”さらには“しきたり”にこだわり過ぎると、開祖の“本懐(ほんかい:もともとの目的を指す言葉)”から外れる事となる。オイラ達学会員の場合だと、その“本懐”は日蓮が説いた“南無妙法蓮華経”の広宣流布であり、それは釈尊の“法華経”の本懐である“生きとし生けるものすべてを救済する”という考えと同じである。そう信じる事も、実は大きな意味合いでの“勝負事”であり、それに人生すべてを賭けて挑むとなると、それを行なう者…つまり“法華経の行者”は、すべて宗教上における“勝負師”といえる。当然だが、他宗派から見ればそういう考えのモノは、排除すべき異端児であり、それ故に迫害に遭うのは必至である。しかし、そういった事を敢えて選び布教を行なう姿は、真の意味で“聖職者”である。そして“本懐”を遂げる為の“大勝負”に挑めるのは、こういった困難に敢えて立ち向かい、打ち勝った者だけである。
勝負事とは本来、そういった“自分のすべて”を賭けて闘うのが本筋であり、公営ギャンブルや株式市場での“金銭相場”での優劣とは意味が違う。故に、株でどんなに儲けても、ジャンボ宝くじの1等を何度当てようと、そこに“自分の本懐”がなければ虚しいだけである。次のステップを踏み出すのか、あるいは同じ場所でもう少し頑張ってみるのかは自分次第であり、逆をいえば占いや予言の類いは、あくまで“目安”であって、その通りにやる必要性はない。
確かに、過去に偉人達が残した“記録”は、未来を予測する参考にはなるが、だからといってそれに囚われて、現在起こっている事柄から“逃げて”いる様では、結果として同じ過ちを繰り返すハメになる。そういった意味では、アメリカの“戦争の言い訳”や中国や韓国の“謝罪と賠償”という言葉は、むしろ彼等の子孫を苦しめる“足枷”になる。現に日本は、過去の戦争で生じた悪事の“清算”を、これからも子孫達に押し付けていかざる得ない状況である。“あの”戦争に関係ない、子供達にである。当事者の殆どがこの世から消えた状況で、未だに過去の恨みだけで攻め続けるのであれば、その報いは必ず自分の“子孫末代”に振り掛かってくる。そこには、いわゆる“愛国心”なんてモンはない。単なる隣人に対する“嫌がらせ”である。その報いを受けるのが当事者ではなく、その子供達なのだという自覚がない限り、永遠に“惨劇”は繰り返される。それを防ぐ為にあるのが“法華経”の本懐であり、真実の“愛”なのである。