迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

戦争と競馬の話。

今週の“週刊競馬ブック”に、最年少のダービージョッキーにして、戦争で満州(現在の中国北東部)に向かい、その後シベリア抑留中に帰らぬ人となった前田長吉騎手の遺骨が、今月初旬に故郷・青森県八戸市に62年ぶりに帰ってきたというニュースが掲載されていた。たまたま、厚生労働省戦没者の遺骨のDNA鑑定を行なった時に、青森県出身者の6人の中に前田騎手のモノがあることが判明し、青森県からの連絡を受けた遺族の方に、無事返還されたのだそうな。
ま、人間の場合はこうやって“帰還”する事はあっても、競走馬の場合、いざ戦地に駆り出されると、必ずといって戻ってこない。戦争というのは、人も馬も“悲しい結末”が待っている。どんなに優れた競走成績を残しても、どんなに卓越した騎乗技術を持っていても、戦火の前では無意味である。そして、結果的に生き残れたとしても、大半は競馬場へ戻ってくる事はない。

当然それは、“施設”である競馬場も無縁ではない。昔は地方競馬も盛んで、戦前の関西でも8カ所(明石・園田・八尾・春木・草津・奈良・紀三井寺・京都長岡)が存在していた。しかし、この中で現在も開催を行なってるのは園田だけである。(戦後に開催を始めた競馬場として長居や姫路があるんだが…)戦中は競馬なんてやってる訳はなく、すべての競馬場で軍用馬の鍛錬を行なっていて、コレが原因で終戦後はGHQの命令で、競馬場は殆どが駐留軍に接収されていた。無論、中央競馬もこの影響ですべての競馬場が封鎖され、再スタートは現行の競馬法制定まで待たなければならなかった。
特に最悪だったのが横浜(根岸)競馬場で、戦時中は日本軍の鍛錬場として、そして終戦後は進駐軍の横浜駐屯地として利用され、結局“競馬場”として一度も復活せずに“廃止”になった。つい10年前くらいまでは競馬法に則り、JRAの“公式競馬場”として名前が記載されていたが、競馬場としての名残であるスタンドは、現在もアメリカ海軍駐留地の中にあって、一般人の見学はできない。しかし、コースは公園として整備され、その片隅に競馬場だった頃の歴史を知る博物館がある。
また、阪神競馬場も、本来だったら鳴尾浜から逆瀬川付近に移転する予定だったのが、進駐軍の通信基地として予定地を接収された為、現在の仁川に作ったとか。
現在でこそ、国際レースや世界を舞台にしたチャンピオンシリーズでにぎわってる競馬だが、それは開催国が“平和”である証拠であり、遠征してくるor遠征をする国も、競馬ができる程の余裕があっての話である。もしも再び、この日本が戦火に落ちる事があれば、世界を席巻するかもしれないサンデーサイレンス種牡馬の大半は“消滅”してしまうだろう。また、武豊藤田伸二といった騎手も、前田騎手同様に戦地で命を落とす事になるだろう。そしてそれは、西洋式競馬がアジア全土から消える事でもある。平和の有難みを知ってこそ、三連単を予想する事に専念できるというもの。頼むからあんまり問題を起こさないでくれよと、隣人のバカ騒ぎを止められたら良いのですが…。