迷馬の隠れ家 はてな本館

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“立正安国論”から見る、世の中の話。

どうやら、青年教学2級試験がある事を意識して、試験範囲の“立正安国論”に関する情報として、オイラのサイトにアクセスした形跡が何件かあった様である。ま、試験の内容とは直接関係ない(訳でもない)んだが、コレが書かれた経緯と、ここんとこ続いてる“災難”について、息抜き代わりの“ネタ”として、記載しておこうと思う。
ご存知の通り立正安国論は、文応元年(1260年)7月に、鎌倉幕府に宛てて書かれた、十問九答の“問答形式”の論文である。そしてコレは、この当時の国家権力に対する初めての“折伏”であり、コレが原因で多くの念仏(浄土宗)信徒を激怒させ、権力者を操ってまでの迫害を招いた訳である。てのも、この本文上には、浄土宗の開祖である法然に対する批判が書かれていて、しかも完全に“悪人”扱いで書いてるモンだから、激怒するのも無理はない。

しかし、コレには理由があり、それは僧侶としてあらゆる寺院で、教典の閲覧および問答を行なった結果、せっかくの法華経を僧侶が完全に理解できず、しかも“法華経を解説するのは、自分でもめんどくさいから”という理由で在家信徒に対して“捨閉閣抛”(しゃへいかくよう:捨てよ、閉じよ、さしおけ、抛て)して、ただ阿弥陀如来に縋れと説いた訳である。そして、読経は僧侶の“仕事”として、信徒は何も考えずに念仏を唱えよと言い放ってる訳である。
その事に気付いた日蓮はもう一度、法華経だけでなく他の爾前経(にぜんきょう:阿含経や般若心経等、法華経以前に説かれた経文)や法華文句(ほっけもんく)や摩可止観等といった法華経に関する論説文等を研鑽し、結論として法然の“理論”を破折した訳である。
話は変わるが、鎌倉時代というのは結構元号がコロコロ変わっていったんだが、その背景には、平安時代末期から仏法上における“末法時代”(まっぽう:今までの釈尊が持っていた功徳がなくなり、誰も救われないという終末期をさす)に突入し、誰もが既存仏教に不安を抱いていた矢先、先の合戦(源平合戦)で疲弊したあげくに疫病や震災が頻発し、天候も安定しなかったが為、全国規模で飢饉が発生した事が影響している。しかも、その“原因”を元号のつけ方が悪いとしていたモンだから、余計に“ゲンの良い”元号にしたかった様である。
つまりこの時代の人々は、迫り来る“災難”に立ち向かって、干ばつ対策等の農業改革や災害に遭った集落の復興等をやろうとせず、とにかく“問題”を後回しにして“極楽浄土へ行く”ことしか考えてなかったのである。実は、現代社会でもこの状況は、全く同じなのである。ただ、当時は農・漁業に携わる者が大半で、現在では会社員(含むフリーター)が主である。就労形態は違えど、庶民感覚としては、ほぼ同じである。そして為政者がサムライから政治家に変わっただけで、考えてるレベルは、ほぼ同じである。
つまり、日本人は昔から“エエ加減”な性分なのである。しかし、それ故に今日まで“迷走”しまくってる訳である。だからこそ、キチンと“生き様”を指し示す指導者が必要なのだが、中途半端に“アジア人”なんで、過度に“束縛される”事を嫌うという厄介さもある。それ故に世界から認められる“賢者”が日本にいても、その“教え”を拒み、さらには勝手に憎むという習性がある。コレを正そうとして、鎌倉時代に市街地の片隅で、日蓮は“南無妙法蓮華経”と叫んでいたという訳である。こう考えると、オイラ達学会員は恵まれている方なのかもしれない。なんせ、いろんな意味で創価学会は世間に認知されている訳であり、あらゆるツールを駆使して折伏・弘教をやる事ができるからだ。でも、そのきっかけを作ったのは、あくまでも日蓮の“民を思うからの獅子吼”である事は、いうまでもない。