迷馬の隠れ家 はてな本館

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カルトと宗教の違い

よく、創価学会の事を“カルト教団”と勘違いされる方が多い。確かに、他人から見れば“得体の知れない怪しい団体”に想われる様な行為をかつては繰り広げていた過去(あ、現在でもかw)はあるが、基本的に不特定多数の人間に対して説法をする事はあっても、だからと言って宗教と関係ないヘンな物(壺とか珍味とか…)を押し売りをしたり、“教祖”自らがハレンチまがいな行為(女性信徒の裸体を求めたり、共同生活を強いたり…)をやったりはしていない。大体、そういう事をやるヤツって、宗教そのものを“勘違い”してる訳で、例えばキリスト教修道院がなんで男女バラバラに存在するのかとか、イスラム教や仏教系の一部宗教団体の僧侶(宣教師)には毒男…もとい、独身者が多いのかという“理由”を知らない。そもそも、宗教と“カルト”には決定的な“似て否なる部分”がある。その事を踏まえた上で、もう一度この問題について書いておこうと思う。

基本的に“宗教”というのは、人間の根本的な生き様を示した哲学と、人間だけじゃなく森羅万象に対して“謝罪と誓願”を行う為の修行がセットになって、初めて意味をなす。つまり、自分が生きている事に対し、全ての要因に対しての感謝と懺悔が“祈り”という行為をもって集約され、そこから導かれる他者に対しての接し方や慈しみを学ぶのが教学であり、過去の事例をもって布教時の“教訓”として人生に反映してこそ“本物”なのである。ただ、その為の“行動”が宗派や教団によって様々な解釈があり、それが積み重なって今日の“宗派別マナー”というトンチンカンナ習慣が生まれたといって良い。ま、ココまではどの宗教も“共通”なんでそんなに気にする必要性はないが、問題は“教主”を名乗る者の“本質”である。
真っ当な(というとおかしいかも知れんが…)宗教団体の“教主”及び幹部(この場合は本山の監理責任者)は、我欲に走り易い末寺(地方の末端期間)に対して徹底した監視と、一般信徒からの“苦情”も受け付ける姿勢を示す。当然だがそれは、信徒ではない一般人に対しても門戸を開いていて、緊急時(例えば震災や水害で避難を余儀なくした時)には本部(総本山)から、施設を利用してもらう様に指示が出る。こういった対応ができるのが“当たり前”の事である。つまり、日頃から周辺地域と“開かれた”交流を行うのが普通であり、世間と常にリンクしている。
しかし“カルト”はそうではない。表向きこそ立派な哲学や謳い文句を掲げるものの、実体は世間と“隔離”していて、あたかも“神秘”がある様に見せ掛けて、多くの者を惑わせる。そのひとつとして、信徒だけで共同生活をやらせたり、日常生活をも脅かす様な“修行”を強いる。もっといえば“宗教”の名を借りた“不幸なネズミ講”を展開しているのが実体であり、辞めた(と言うより、上手く脱出した)人達が異口同音に話す事といえば、金銭的なノルマや性的関係を無理矢理持とうとした上での暴行、更には“教祖”自身の憎悪からくる“抹殺計画”といった、かなり“自分勝手”な法論とは言えない“お粗末の思想”が出てくる。
最近の大学生に、こういった“ネズミ講まがい”に引っ掛かるケースが増えてる背景には、自分が持ってる劣等感を気軽に話す機会がない事が原因ではないかと、オイラは思っている。そう、親戚・縁者にすら話せない“自分に対する悩み”という部分を話す相手が、たまたまこういう連中だった訳で、“宗教”をなまじやってる人間だったら、きっとわかってくれるという“思い込み”が、被害を拡大させている訳である。そこには“家族という絆”は存在していないし、もっといえば親に対する強い“不信感”が結果的にカルトに走る要因ではないだろうか。
自分を生み育てた親を、全く信用出来ないというのは最大の“不幸”であり、“もう大人だから…”と必要以上に無関心でいる事も、“子供を守る”という親の責任を“放棄”してる様なモンである。最近急増しているネグレクト(児童虐待)も、ハッキリいってしまえば、こういう“自分の弱さを他人に知られたくない”という心理が裏目に出た結果、自分の“捌け口”を自分より立場の弱い人間…つまり自分の子供に向けてしまうのである。
つまり、チカラの方向性が“被害者になっても救われたい”のか、“加害者になっても逃げ出したい”のかで別れるのであって、根本的には“同じ心理”が働いてるとオイラは思ってる。それがカルトを助長し、ネグレクトやモラハラ(モラルハラスメント:弱者に対して自分との関係に主従差をつけて行なう精神的な虐待)やパワハラ(パワーハラスメント:権限や財力といったチカラ関係で相手を虐める行為)等の行為を“容認”せざる得ない状況を生み出してると思う。
肝心なのは、自分の中の“意識革命”であり、自分の“専門分野”以外で相手が優れているなら賞賛し、得意分野で天狗になって自分を虐める相手に対しては、“そういう事でしか救われない哀れなる者”として受け止めてやれば良い。つまり、誰しも本当は何らかの“弱者”であり、たとえ“障害者”といえど先天的な障害者に比べると、同じ障害者でも事故や病気で後天的に障害者になった者の方がハンデがデカい。男女でも同じで、どんなに力持ちでタフな男性でも、女性と同じ様に家事全般をやった上で男性と同じ仕事をこなせるかといえば、殆どは無理である。(女性もそうだが…)そういった事を教えてくれるのが本来の“道徳”であり、そこに感謝と懺悔を加えると宗教。そういった部分が欠落してるモノは、それこそ“カルト”です。