迷馬の隠れ家 はてな本館

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真面目に“成仏”を考える…

青年教学2級対象者の方、手元に“大白蓮華”増刊号はありますか?
“え、何その雑誌?”という一般の方に説明すると、この雑誌は学会員なら必ず月に一度は手に取る“機関誌”で、コレの御書学のページが座談会(会合の中では地区orブロック単位で行なうヤツ)での講義で習う訳である。で、コレの“増刊号”というのは、教学試験が行なわれるおよそ2ヶ月前に受験対象者向けに発行されるヤツで、ココに書かれてる御書が“試験範囲”という事になる。
話が脱線したが、ここからが本題。今回の範囲で“一生成仏抄”という御書が出るという事だが、普通に“成仏”という概念はどういう事を指すのでしょう?一般的な考えは、死んだ後に“極楽浄土”へ向かう事を指して言うと思うんだが、それは“法華経”の前では本来の意味とかけ離れた“虚偽”であり、とんでもない“勘違い”です。

“一生成仏”というのは、凡夫(ぼんぷ:ようは普通の人間)が生きている間に“成仏”するという概念で、爾前経での“歴劫修行”(りゃっこうしゅぎょう:何度も生まれ変わって仏道修行を行なう事)と違って、法華経で説かれてる“十界互具”(じゅっかいごく:地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の生命観すべてが、どんな生命にもあるという教え)に基づいた修行をもって仏になる事。つまり“即身成仏”(そくしんじょうぶつ:そのままの姿で“仏になる”という意味)を意味してます。
つまり、自分自身の中にある生命観も森羅万象の生命観も、見た目や生き様は違えど“中身は一緒”であり、自分次第でいろいろと変化する…つまりは、“その他大勢”と無視されがちな生き様であっても、自分が自分に誇りを持って生きている様を示し続ける以上、どっかでそれを“共感”してくれる仲間が現れ、最終的にそれは世界をも変革する“チカラ”になるという考えです。
よく考えたらわかるのだが、なんで不軽菩薩(ふぎょうぼさつ)は出逢う人々に…しかも自分を蔑んで見ていた人にまで挨拶をしたのでしょう?それはこの法華経の概念、すなわち“だれの生命にも成仏するための境涯がある”という教えに従い、少しでもそういう“生命観”に気付いてもらう為に、あえて挨拶をしまくった訳です。(この“修行”は現在でも、ネパールやインド、タイでの挨拶の“基本”となってます。)
つまり、オイラ達学会員が毎日(最低1回)はやってる勤行・唱題という“修行”は、諸天善神(しょてんぜんじん:平たく言えば、八百万の神々と仏教上での守護神)に対して、あるいは自分のご先祖に対して、自分と“一緒に生活してる”上での“挨拶”であり、その“祈り”をもって、自分もまた“同じ境涯”であることを確認するための行動です。ここら辺は確か、こないだの“哲学独り言”でも書いたとは思うが、“誓願と謝罪”とはまさにこのことであり、それらを全部やろうと思うと、おそらく周辺の神社仏閣を巡っても一日掛かりの“大仕事”になり、とてもじゃないが“専門家”でも無理です。しかし法華経は、そういった“形式張った修行”をせずとも、自分の生命の中にある“仏界”を呼び覚まして、森羅万象の生命にまで及ぼす“祈り”ができるとされてます。ここに着目して“南無妙法蓮華経”という自分の中の“仏界”を目覚めさせるキーワードを導きだしたのが日蓮であり、それに伴った論文や、信徒に対する激励や質問に対する応答等を書き綴ったのが、現在オイラ達がときたま繙いてる御書なのです。
とまぁ、“一生成仏抄”に関する、オイラなりの解釈はこんなモンだが、重要なのは自分の一念が変われば、世間も見え方だって変わるというモノ。“自分さえよければ…”ではなく、“自分がしっかりしてないと…”と意識を変えることで、世間をひっくり返すことだってできると“信じる”トコから始めないと、結局は無駄になるって事。“鰯の頭も信心から”なんて諺がある様に、呪(まじな)い事の結果ばかり気にしすぎると、それに自分の生活観すら“支配”されてしまう。むしろ、自分に自信を持たないとネ!!