迷馬の隠れ家 はてな本館

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声仏事を為す、音楽もまた然り?!

こないだ早実vs駒苫の決勝再試合を見に行った(8月21日の記事参照)訳だが、試合中駒苫応援のブラバンの音が、オイラは駒苫側にいたのに妙に音が小さい様に感じた。それに比べて、早実側のブラバンの音がやけにうるさかった。しかも演奏している曲は駒苫と比べて地味な(というか、定番のバッティングマーチのみ)演奏だったのに、“どうしても勝ちたい…”という気迫が観客まで巻き込むかの様な雰囲気を作り上げていた。この様子から、オイラには“駒苫の3連覇はないなぁ…”と感じ、試合途中で観戦を切り上げ、甲子園を後にした。(で、あの結果だった訳だがw)コレによく似た話は、あどランの特集コーナーでも“発生”していた。特に多かったのは、音楽を使った企画で、特に有名なのが、あの“邦楽とセッション”でのひとコマであるのはいうまでもない。
今回は、その話も絡めて、ちょっとした“仏法話”をば…。

以前“あどランアーカイブ”でも紹介した通り、この企画は“JNNアノンシスト賞”で賞をとった程評判の良かった企画で、特に薫兄の競馬実況(ミスターシービーが勝った菊花賞)と邦楽(この時は和笛と鼓)の“ガチンコ”セッションは、視聴者を釘付けにし、一瞬にしてその当時(1983年)の京都競馬場へ誘ったモノだった。実はこのシーンだけは300回記念と最終回、そしてMBS開局50周年記念の特別“復活”放送でリプレイ放映された。で300回記念で、たまたまKTVアナ代表として出ていた征平タンが、コレを聞いてこんな事を言っていた。
『ボクら(KTVアナ全員)は、杉本さんの実況こそが本物の“競馬実況”だと思っていたけど、ラジオの競馬実況アナってレースの描写が上手くて、TV中継とは違った感覚だったのが新鮮だった。』
そう、ラジオの場合はTVと違って、リスナーは現場の風景を見る事ができない。だから、きよぽんの様な“形容詞・修飾語ゴテゴテ”の実況では、かえって知りたい情報を聞けなくてイラつく。だからこそ、言葉によるシンプルで、かつ正確な描写を必要とする。コレがいわゆる“●●節”と表現される、ラジオでの実況アナ特有の“クセ”である。(失礼ながら、TVの実況アナに“●●節”と付けられる程上手いと思うアナは、はっきり言って稀な方だと思う。)
コレと同じで、伝えたいことや分かってほしい部分を相手に(あるいは一般大衆に)話す時、自分が本気であればある程聞いてくれる反面、関心がなかったり相手にウザがられてると、かえって伝わらない。それどころか、誤解されるのがオチである。
逆を言えば、相手も“真剣”に話を聞いてくれているのに、こっちがふざけた態度を取れば、当然ながら向こうも同じ態度で接してしまう。TVだから、あるいはラジオだからと“聞き流す”程度で聞いていると、自然に実況アナも“手抜き”な不届き者が増える。いわんや、ここ数年において、関東キー局実況アナの実況に関するレベル低下は著しく、聞いてるだけでイラついてしまう。最近のスポーツ中継の視聴率低下の要因は、競技内容の低レベル化はもとより、実況アナの低レベル化の方が深刻だとオイラは考えている。特にTVは、画像の鮮明さやカメラワークばかり強調し過ぎて、肝心の実況がヘタレばっかなんで見ててイラつく。(往年の先輩アナから、何を学んだんかと小一時間問いつめたい程!!)
御書には“声仏事を為す”という言葉がある。(業務連絡、御義口伝や一念三千法門、一代聖教大意に出て来る言葉っす、参考まで。)対話をもって“仏法布教”の基本である以上、“話す事”は大切な事である。自分の思いを100%相手に伝わるかどうかは、自分の思いを完全に言葉に託すだけの勇気も必要である。その“ゲン担ぎ”というか、きっかけを作る場が、生活上における勤行・唱題の“修行”であり、御本尊(仏前の先祖や森羅万象の精霊・神々等)に宣誓と謝罪を行なうからこそ自信に繋がり、たとえ大胆な行動をとっても、相手に好意を抱かせる事ができる。
音楽でもいえた話で、良い楽曲は単なる“流行歌”で終わらず、永遠と歌い続けられる。しかし、そうじゃない曲は一時は流行るものの、最後は誰も歌わない。それどころか、“黒歴史”として制作者から封印されるのがオチである。同じ楽曲でも、演奏者の腕次第では、その演奏テクニックやアレンジをパクられるケースもある。逆にヘタレが演奏したら、せっかくの“名曲”も台無しになるのはいうまでもなく、当然ながら誰も真似をしようとは思わない。また時として、ヒットした当時のイメージを引き摺ってるモンだから、新しい事にチャレンジしたくても、批判を喰らうのを恐れて同じ様なアレンジに逃げてしまう事も多い。
こういった事を踏まえると、“自分の世界観”が出来上がってしまってるニートや、バッシングに絶えきれず逃げ出したヒッキー(引き蘢り、決して某演歌歌手の娘ではない!!)を、正常な感覚に戻してやるのは至難の業であり、カルト教団からの救出でも、こっちの誠意を向こうが正面から受け止めてくれない限り無理というもの。だからこそ、自分が“相手の正面に動いて”相手を受け止める立場として、根気よく接してやる事が重要であり、向こうが図に乗って横柄な態度を取る様なら、かわいそうだが自分が責任を取るつもりで、“とどめを刺す”必要性がある。もちろん“殺害”を意味してるのではなく、相手との“縁を切る”勇気である。その時の背負う“大罪”は自分だけで良い。その為の闘いこそが、仏法の神髄であるとオイラは思う訳である。