迷馬の隠れ家 はてな本館

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国歌・国旗と民族意識

一部の掲示板で、いわゆる“日の丸・君が代”に関する論議が熱い一方で、平取(びらとり)ダムをめぐってアイヌ文化の継承を訴える記事においては、なぜか“侮蔑”とも取れる意見が多い様である。本質的には“同じ問題”なんだが、どういう訳か論議する人間は、その殆どが自分に対しての“誇り”がない事を嘆くどころか、真面目な“民族意識”に嫉妬して悪口雑言を繰り返す始末である。
確かに、ごく一部のバカが、犯罪に手を染めてるは事実だが、殆どの人々はそういう“愚行”をやってない訳だし、報道されてる“事実”だけですべてを語る様では、短大時代に民族学歴史学(特に文化史)を学んできた経験があるオイラとしては、(ハ◯ーン=カーンじゃないがw)“恥を知れ、俗物!!”と言いたくなる。

よく考えたらわかるが、なんで“君が代”が国歌で、“日の丸”が国旗として用いられているのか?そもそもは(明治政府以前に)法律で決められたモンじゃなく、ただ単純に外国の要人に対し“日出ずる国”を示すのに用いた程度で、それがそのまま定着したモンである。本来なら右翼よろしく、天皇の御紋である“黄金の菊花”を白い布の真ん中にでもあしらうべきだろうし、事実、幕末から明治初頭に頻発した紛争では、この御紋を拝した幟が“天皇直下の官軍”の目印として掲げられていた。源平合戦那須与一の話で出てくる、平家側が用意した的の扇には、確かに日の丸をあしらっていた事になっているが、あくまでそれは“菊の御紋”を描くのには当時の(絵画)技術では不可能だっただけで、本来だったらそういうのが描かれていたと考えるのがスジである。
また、“君が代”という曲も歌詞の部分は、そもそもは日本書紀(だったかなぁ…ずいぶん昔に習ったんで失念してるがw)の中に出てくる和歌であり、最初の部分を言い換えただけである。(確か“君”とは書いてないんだよなぁ、原文はw)大日本帝国憲法の頃の解釈だと“天皇”を指しているけど、現在だったらコレは“国民”自身を指してると解釈すれば問題は無い。
重要なのは、そんな格好だけの“些細”な事じゃない。自分達自身に“民族の誇り”を持っているかどうかであり、それが基で用いている以上は“日の丸・君が代”は日本人という名の“島国民族”の象徴であり、そうじゃないなら普段から、別に気にしない事だ。少なからずとも大阪人なら、そんなモン本気で“君が代・日の丸”を嫌っているなら、あっさりとダメ猫阪神タイガースの球団旗を“国旗”にするし、国歌だって“六甲おろし”(正式名称は“阪神タイガースの歌“w)で十分である。
そう、自分達を示す“御印”は、自分達で決めた以上は守るべきであるが、国歌が安易に“押し付けてる”と思ってる以上は、“君が代・日の丸”をどう扱ったとしても構わない。逆を言えば、自分に“誇り”があり、相手に胸張って主張できるのなら、国旗や国歌は気にする必要はない。しかし“自尊心”だけが高く、相手を敬えない様な態度しか取れないなら、今一度“国旗・国歌”は何の為にあるのか、考えるべきであろう。
アイヌ民族は、北海道や千島列島、そして樺太を中心とした北方民族である。彼等は事ある度に住まいを追われ、不当なもでの政策に翻弄された歴史がある。オイラ達がその“歴史”に関わる様になったのは、あくまで幕末以降であり、それ以前はその存在すら“歴史の闇”に葬り去られた種族である。オイラの好きな日高地方は、その中でも最大級の集落が分散していたトコであり、今でも平取町の二風谷(にぶだに)には、その集落の名残が残ってる。今年の春に亡くなられた、アイヌ文化研究家の萱野茂氏もここが“本拠地”であり、彼自身もアイヌの民であった。(ちなみに“アイヌ”は本来、アイヌ語で“人間”を意味する。)自分達の実態を知ってもらい、多くの人々に“アイヌ文化”を継承してもらいたかったからこそ、萱野氏は多くの“ウタリ”(アイヌ語で“同胞”を意味する)に呼びかけ、古民具を集めては自分の敷地内にある小屋に展示した。コレがきっかけで平取町は、二風谷ダムで沈んだ集落の一部を湖畔周辺に復元し、官民一体(とは言い難いが…w)で保全に務めている。だが、多くのアイヌ(特に高齢者)は、本来のライフスタイルに戻してほしいと願っている。それは、自然とともに生きた自分達の誇りを取り戻したいからであり、単なる利権争いや無茶な注文ではない。彼等から生活の場を奪い、文化を破壊した上に、現行の生活を“強要”したのは本州から来た入植者であり、彼等の生活文化を奪ったのは他でもなく、日本の政府自身である。だからこその“糾弾”であり、これ以上の開発に対して反対を表明してるのである。
こういった歴史や地道な活動を顧みず、現行の権限だけで横暴な事をしてるのが仲間内にいるから信用されてないんだが、同じ態度を自分達も取ってると自覚してる者は、何らかのカタチで“自尊心”を維持する為に奔走する。そういう事から踏まえて、もう一度考えると、国旗や国歌も要は民族としての“拠り所”であって、それを侮辱するから激怒するのは当たり前である。しかし、過度にこういった事を気にしている様では、結局“安っぽい自尊心”とバカにされるのである。