迷馬の隠れ家 はてな本館

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なぜ日蓮は他力本願を“批判”したのか?

昨日、衆議院の補欠選(神奈川16区と大阪9区)があった訳だが、いずれも自民党の候補者が勝利した。しかしその背景には、投票率の低さと創価学会を“支持母体”としてる公明党(←コレの話は“創価学会の話”で、みっちりやらせてもらいますw)の“選挙協力”なしではムリだった訳で、自民党単独の“票田”は既に枯れていると考えて良いでしょう。ま、なんで自民党(特に小泉前首相や安倍首相)が創価学会に頭を下げたのかといえば、この“枯れ果てた票田”の根起しをやってくれそうだったからというのは表向きの話で、彼等自身はむしろ“政教分離(せいきょうぶんり:本来の意味は、各個人の信仰に対して、権力が介入してはいけないというモンなんだが、日本人は“政治に宗教が絡んではいけない”と勘違いしてる部分がある様でw)”の立場上、為政者でありながら宗教哲学に疎かったせいもあって、宗教差別を行なった当事者として近付いたまでに過ぎない。
そういった“経緯”については後日やるとして、今回は“他力本願”についての解釈の話です。元来なら浄土宗系の僧侶達に説法してもらう方が良いんでしょうが、オイラは学会員ですので、学会員の“他力本願”論についてお話ししましょう。

創価学会の持論…というより、日蓮の考えは、自分から努力し創意工夫を凝らして掴んだ結果というのは、たとえ最悪なモノだったとしても自分が納得してるなら受け入れて、乗り越えていくモンだとしています。つまり、落ちこぼれだろうが優等生だろうが、自分自身にとってベストだと思える“答え”を見つけ出すまでは、何度でもチャレンジし、決して自分から諦めないという事です。その際にほんの少し、同じ悩みを持つ人の話を聞いたり、過去に同じ悩みを持ってて克服した人から助言を戴いたりする事で、その事がきっかけで互いを助け合う精神と信頼関係を深めると考えられています。故に“人間革命”とは、考え方や感覚を変える事によって、元々持ってる自分の“運命”そのものまでも変える事ができると教えられます。但し、この理論はあくまで、自分自身の“弱さ”や欠点に気付いて、それをどうにかしたいと思った人が辿り着く話であって、そういうのに気付いても“面倒くさい”と思ってる人には、到底不可解な話です。つまり“世間が変わらないと…”と思ってる自意識過剰な精神では、すぐに挫折してしまう理論なのです。
確かに、最終的な“価値観”というのは、作り上げた当事者ではなく他人の“嗜好”に左右されてる部分があり、そういった意味で自分達のやりたい事が通用するか否かは“他人まかせ”な訳です。しかし、最初から何の努力もせずに結果ばかりを望んだり、“安全策”と称して他人の意見に何も考えずに乗ったりした挙げ句、失敗した途端に責任を押し付ける様な考えでは、結果として自分だけじゃなく多くの人々の価値観すら下げる事になります。
近年増加傾向にある未成年(特に幼女)の連れ去り事件や、連続放火等の社会不安の一因に、自分がやらなくても誰かがやってくれるという安易な考えが横行し、自分自身から“人間”である事を“放棄”している事に気付いてないのです。つまり“精神的な未熟さ”が残ったまま年を重ね、人生そのものに深みがない大人が増えたのです。そして、それを言い表すのに相応しい“言葉”こそ、“他力本願”という発想なのです。自分が描いた夢を実現させるかどうかは、そこに待っている苦難に大して、自分が決めて立ち向かうからこそ初めて叶うのであって、最初から“How to…”がある訳ではありません。そしてそれは他人が決める事じゃないから、大いに悩み苦しみ、そして傷付いて、その“痛み”を乗り越えるから、様々な生き様がありそれぞれの個性となって反影されるのです。従って、マスコミで有名な占い師の言いなりになったり、神仏にただ祈るばかりで何も行動を起こさないのなら、結果として幸福にはなりません。他人に責任を擦りつけようが、逃亡先で放蕩三昧しようが、“極楽”を感じるのは一瞬であって、自分と向き合わない限り、どこまで行っても“地獄”です。