迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

自殺も立派な“犯罪”です?!

借金苦、いじめ、パワハラ…堪え難い屈辱の果てに自分を“殺める”行為を取って、それで“けじめ”にしようと考えてるヤツ、ちーっとばっか多いんじゃない?もちろん、ニュースで取り上げるヤツは、かなり問題アリなケースだが、普通に生活してたって、ふと“死にたい…”っと鬱になる様な事ってあるじゃん。オイラなんか、そんな“ウンザリ”事って日常茶飯事っすよ。でもね、ちゃんと生きてる。そりゃ、マーティ達の“管理人”としての“役目”もあるからだけど、そんなモンがなくったって、自分という“存在”を愛しく思う人がいる、あるいは恨んでるヤツがいる。そういうモンの“願い”も背負い込んで、オイラは生きている。なんでオイラは、ヤな事あっても“自殺”を考えないのか?それは、死んだって自分に対する遺恨は残るし、残されたモンは悲しみだけじゃなく苦しみまで“倍率ドン、更に倍!!”(古っ!!)で増えちゃうモン。それは結局、自分以上に相手も“不幸”になっちまうよ。

弱者をいじめた末に“自殺”に追い込んでも、直接生命を奪った訳じゃないから、“殺人を犯した”って感覚は“いじめっ子”にはわからないし、むしろ何とも思ってないと思う。けど、ホントは自分がそうなるのが怖くて、逃げ回ってるだけだ。自殺したヤツだって、立場が違えば同じ結果が待っている。(オイ、聞いてるかヒデボーw)
“自殺したい”と考えた時、“その後”を考えた事があるかい?誰が自分の亡骸を“処分”するか、どんな思いで両親は嘆くか、親友として、あるいは仲間として付き合ってくれた人々は…それでも自分が“不要品”だと思ったなら、自分を“必要”とする存在を探せば良い。それでも見つからないなら、人間を相手にしなくても良い。そうなると、途中で気付くハズだよ。“自分”という存在がいなくなった時、そこに残った“遺産”は、自分以外では取り扱う事なんてできないって事を。
その“意志”を継いでもらう事はできても、完全に自分が描いた“未来図”通りに構築する事なんて、誰にもできない。“未来”というのは他人が決めるのではなく、“自分が主役”として決める事…そう、その決定権を奪ったのは世間じゃない、自殺した“自分自身”だ。
どこまでも“他力本願”で良いのなら、人間として生まれてくる必要性はない、むしろ“家畜”で充分だ。その“家畜”だって、ただ“食料”として“生かされて”いる訳じゃない。競走馬は“人工的な平原を走る”為に調教され、介助犬は“障害者を補佐する”為に様々な技術を習得し、その役割を果たす事で人間と“同等”の扱いを受ける。単なる“ペット”も、飼い主の精神的な“安らぎ”を与える存在だから大切にされる。なら、人間はどうだろうか?あまりにも、周りに“大勢”いるモンだから気付かないかも知れないが、“人間”である事が当たり前すぎて、疎かになっていないだろうか?だから、自分の“尊厳”を守る闘いがあり、それが基で喧嘩になったとしても普通である。だが、そういった“生存競争の原理”が崩壊し、“事なかれ主義”になり過ぎている。それじゃ意味がない。運命なんてDNAで決まるのではない、今までの人生経験…“生き様”で決まるのだ。
オイラには、正直な話、真っ当な“生身”の友人はいない。殆どが“霊的お友達”であったり、ネット上の薄っぺらい付き合い程度の知り合いしかいない。だが、お互いを“必要”と感じているから成り立つ“信頼”の関係がある。要するに、相手がどう思っていても、最後まで自分を“必要な存在”と自分自身で“信じる”事で、なんとか“自我”を保っている。出なきゃ幼少期に、無我の境地で首吊ってるw
教訓:“必要な存在”だからこそ、“人間”として生まれてきてる事を忘れるな。