迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

名前は認知されても…

さて、今年もダラダラと哲学をやっていくこのコーナーだが、今回は昨日の飲み会での会話から。呑んべぇオヤジばっか9人相手に2次会まで(だからカラオケ屋で、生ビールをジョッキ20杯もおかわりするなってばオッサン…って言っても、飲み放題パックだったから、オイラ的に財布は安心だったけどw)ドンチャン騒ぎを阿倍野でやってた訳だが、ここでの会話で、(年齢が年齢なんでw)お墓の維持費や葬式の費用等の話になり、宗派毎に“戒名”の価値観や坊さんの事で盛り上がった訳である。で、当然だがこういう話になると、必然的に“けったいな宗教の信者”であるオイラにも話を振られる訳で、そうなるとある種の“宗教アレルギー”を発生させる輩もいる訳である。(話を振ってきたのは、そいつ自身だけどw)で、決まりきってこういう事は言う。
『間違ってるのは創価学会であって、オレらは真っ当w』
何をもって、それを証明できるかはともかくとして、未だに宗教…というか、創価学会に関する偏見ってのはあるモンなんですねぇ。こういう人に折伏をするのって、ハッキリ言って難しいし、むしろ自分の身に“大難”でも起きない限り理解できないのではと思ってしまうんですよねぇ、オイラ的に。

確かに、当時(昭和30年〜平成の“C作戦”以前)の創価学会は、それこそ日蓮正宗の古い体質…というより、日本仏教の“悪癖”を踏襲した上に強引な勧誘こそ“信徒拡大”のカギだと思っていた部分が大きかったし、オイラも強制的に活動をやらされたクチである。まして、“登山会”と称しては富士宮まで行ってクソ坊主の“形式張った”説法を居眠り全開で聞き流し、事ある毎に坊主の言いなりになり過ぎていたキライがあった。が、あの“C作戦”以降は、坊主の方から勝手に“破門”してくれたおかげ…っと言うとアレだが、独立した宗教団体として活動できる様になった訳である。で、改めて坊主どもが信徒に対して解読を禁じていた重要な“御書”の一文を読み直したら…要するに坊主どもにとって“都合の悪い”箇所だったという事が判明した訳である。
ま、この話はおいといて、今までの“カルトまがい団体”からの脱却を行なう為に、近所付き合いや各種イベントの参加、はたまた他宗派の哲学の研鑽といった学術的分野での研究や理解をする為の勉強が個々で行なわれ、コレがきっかけで入会こそしないが学会の理念に共感した人々が増えたのは言うまでもない。が、やはり根底には、日本人自身の問題点…“宗教嫌いの占い好き”というバカげた習性が蔓延っているのだと思う。以前にも書いたとは思うが、“占い”でのアドバイスを信じる事も立派な信仰であり、“占い”の結果が当たれば当たるほどその占い師を信用し、自らの努力や行動を省みない。コレだと、結局は“他力本願”な生き様になるのは明らかであり、自分が不幸に見舞われたのも、“夢がない”と詰られるのも、すべて“他人のせい”にして逃げようとし、結果とんでもない行動をやらかす訳である。所詮それは、そこらのニート以下の堕落である。
この事を諌め、宗教がもってる本来の役目…つまりは“信頼関係”からくる修行を課して、自分自身を成長させる場を築き、弱者救済と独立支援を促す社会貢献の場を提供するという“慈悲”を果たす事で、正しき信仰のあり方を追求したのが日蓮であり、その“血脈”を辿っていけば、必ず釈尊の哲学に通じてると確信したのが学会の“基本理念”である。ゆえに、未だに理解できない人がいたとしても、それは“仕方がない”とオイラは思っている。なぜなら、宗教というモンの“学問”ってのは、僧侶にでもならん限り学ぶ必要性はないと普通の日本人なら考える訳である。それっくらい、本当は宗教の“本懐”を有耶無耶にした挙げ句“商売”にしてしまったバカが多かったって訳である。
いずれにしても、本気で“国のため”といって戦うのであれば、その“敵”は身内にいると考えるべきであり、それを真剣な“思いやり”をもって諌めるのが宗教の“本懐”であると思う。もっと言えば、敵対心むき出しで相手に話すから誤解されるのであって、自分の思いをストレートにブチ撒けて、それで相手に笑われても構わないと思う。むしろ笑ったヤツは、そういう事ができる自分を見て、ただ羨ましいと妬んで失笑してるだけなのだから。