迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

精一杯生きる為にできる事…。

2月中旬仕事中に胃潰瘍でブッ倒れたオッサンが、今日から職場に復帰してきたんだが、本人曰く、元々鬱気味らしい。ま、それが原因で胃に穴が開いた様なモンなんだが、50代ぐらいのオッサンには、時としてこういう“鬱気味”の傾向がある様だ。無理もない、今まで会社で築き上げた地位や栄光は、定年退職とともに“リセット”されてしまうのがオチだからである。これまでの出世や序列と闘ってきた事に関しては褒めてやっても良いが、会社という“小さな社会”では意味があっても、それから離れるとまったく意味を成さないのが現実である。況や組織なんてのは、その枠組み内では多少の格差はあれど、一般社会ではその“肩書き”が通用しなくて当たり前なのである。しかし、そういうのに拘る以上、結局自分に似合わない肩書きに振り回されている事に気付かず、定年後の不安から鬱による自殺や急激な変化に戸惑った末にアルツハイマー病になるケースが多々あるとか。

結局それは、自分を見失っているからこその話であり、明確な目標や今までやった事のない経験をしたいという欲求がない状況では、そこからの改善は難しい。そこで必要なのは、この先“もう少し生きていたい”と思う為の“きっかけ”なのである。それを解き明かすヒントは、実は宗教哲学の中にあると言っても過言ではない。
特にガンや脳卒中等の大病を患ってる人なら、たとえ医師から余命宣告を受けてたとしても、“1秒でも長く生きていたい”と思って治療に専念するより、“残された時間に少しでも生きてた痕跡を残したい”と願って行動する方が、却って長生きするケースがある。つまり、生きる為に医療に頼るのではなく、自分らしい最期を模索するうちに自分の生命力が向上し、いつの間にか大病を克服してる訳である。これこそ“宿命転換”である。医学ができる範囲なんて、たかだか病巣を取り除く程度である。そこから先の部分は、むしろ自分自身の“精神的”な問題であって、そこに効く有効なクスリなんて、処方箋を書きたくても到底無理である。
ここんとこクドい位に広瀬アナの事を書いているが、現状を考えると彼の“決断”は、オイラとしては正しいと思ってる。それは14年前の逸見アナと違う部分…生きる為に“先端医学の犠牲”となるか、精一杯“自分がやりたい事”に集中するかが見え隠れしてる。同じ結果になったとしても、悔いの残る生き方を嫌ったなら、それは“英雄”として褒めた上で笑顔で見送ってやるべきであり、そうでないのなら“バカヤロー!!”と叫びながら泣き崩れたら良い訳である。“本当の優しさ”なんてのは、相手を思う気持ちが双方向で通じ合った時にわかりあえるモンであって、そうじゃないのは“優しさ”とは言わない。
だからこそオイラは、オイラなりの人生を歩む為に毎日を大切に生きたい、どんな苦難も笑顔でやり過ごせるチカラを持っている限りは…。