迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

宗教思想は“邪念”か?

本題に入る前に、ちょっと報告。昨日、無事に妹者1号の結婚式が済みました。いや〜、まいったね。何せ飲めない酒(ビールとシャンパン、ついでに焼酎)を飲まされた挙げ句、只今二日酔いで頭がガンガンですw(ま、用心して勤務先には休暇の申請を、事前に出してたからエエねんけど…w)
さて、最近更新作業中によくやってるのが、記事内容と関係無いトラバの処理である。このBlogをしょっちゅう覗いてる方ならご存知かと思うが、オイラの信念として、ネタの内容と無関係なトラバに関しては、極力掲載しない事にしている。その判断基準は、トラバの承認に際して必ず、相手サイトの内容を確認してから“有害”もしくは“無関係”と感じた分は、有無も言わさず削除(悪質な分はアク禁に)している。競馬予想や明らかなエロサイト、およびアイコラなんかは特に“削除対象”として扱っているが、中には創価学会も含めた宗教に関する批判サイトのトラバもある。で、大概のサイトはカッコつけの“ネット右翼”か、完全に宗教概念を嫌う左翼系である。

共通して言えてるのは、“平和思想”よりも現状の閉塞感を憂うあまりに他人を批判する事で自分の鬱憤を張らす内容である事。オイラから言わせると、悪口言ってる間に自分ができる事はいくらでもあるハズだって事だ。
なぜなら、宗教の“組織力”は確かに、世界をひっくり返す程のバカ力ではある。が、それを支えているのはあくまで、その宗教が掲げている思想であり、それに感銘した信徒が自分達の現状と闘って勝ち得た“実証”をもって、多くの親族・縁者に語り継いだまでに過ぎない。つまり、“解決できない問題”でも真剣に取り組んで、ひとりひとりの“答え”をもって相手の心に変革をもたらすのが宗教の本分である。言い方を換えれば、世間的な立場や年齢は違えども、思いが同じならばひとつに纏まれる…“異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚え候”(業務連絡:今月の座談会拝読御書“異体同心事”の一文です)という訳です。
では、なんで“ネット右翼”や左翼系は創価学会を嫌うか?結局そこには、宗教の本分…礼節・振る舞いを正して何人に対しても平等に接するべきであるという考えが、彼等の様な“意地っ張り”にとっては胡散臭い訳である。つまり、既存宗教への“不信感”が募って、その矛先が真っ当な宗教団体に向いてしまってるだけなのである。
自分達の国を憂う気持ちはわかるが、当たる相手を間違えてはいないだろうか?他人にグチをこぼすのはナンボでも聞いてやるが、だからといって相手の信仰をバカにする権利などない。まして、自分の確固たる“拠り所”を批判されて憤慨しないバカはいない、それは誰でも同じである。しかし、なぜか自分を“特別扱い”で見てほしいあまり、他人を見下し傷つける…昨今のいじめと根本は同じです。ただ単純に、“自分に構って欲しい”という欲望のあまりに自分を制御できず、駄々をこねるガキと同じです。
逆に言えば、世間そのものが“駄々っ子化”してるからこそ大人の“宗教哲学”が必要であり、その根底に法華経を用いるか否かで答えが変わるのです。