迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

法律規制はなぜあるのか?

どうも“あの事件”以降、放送倫理に関する法規制が掛けられようとしてるせいで、業界そのものがバタバタしてるみたいです。もちろん、その“引き金”を引いちまったのはKTVの某番組なのは言うまでもないが、忘れては困るが、一番の原因は視聴率に囚われ過ぎて、報道倫理を犯しまくった在京メディアの態度であり、コレを良しとした視聴者自身の倫理観の崩壊である事だ。言い換えれば、東京以外の放送局は、そのトバっちりを喰らったが為に犯したまでに過ぎず、本来そういう報道倫理に関する部分での管理をやるべきキー局自身がエエ加減だから、“報道の暴力”に歯止めがかからなくなったのである。ぶっちゃけ、自業自得であるのは言うまでもない。
しかし、だからといって“報道の自由”を奪う様なマネを、為政者がやってはいけないのであり、それこそ憲法が定める自由と義務のバランスを崩壊させる要因になりかねない。つまり、“報道の自由≠ペン(マイク・カメラ)の暴力”という自覚が現行の報道機関に欠如してるからこそ、法規制をかけるなんて事になるのであって、ギリギリの線引きをやれてこそ“報道の自由”を守る事だってできるのである。

そもそも“報道の自由”とは、捏造ややらせを容認してる訳ではないし、特定の民族や宗教団体等を故意にバッシングする行為も禁じているからこそ成り立つのであって、それらを破るという事は“法規制やむなし”という世論が出て当然なのである。(もちろん、そういう事を喜ぶのは、ごく一部の陰険な為政者なんだが…w)当然だが、“●●の自由”とは、それに似合うだけの“義務”を背負うからこそ意味があるのであって、そういう自制心が無いモンに自由を与えるという行為は、本当の自由を求めるモンにとって自滅行為に等しい。こういうのを学ぶためにあるのが哲学であり、それは日常のちょっとした部分でも学び取る事ができる分野である。が、昨今の生活様式があまりにも人間関係の希薄であるが故に、そういった“遠慮の美学”を蔑ろにした社会となったのでである。例えば、満員電車で身障者や高齢者、妊婦に対して座席を譲る行為も、基を質せば弱者に対する“譲り合い”の心得であり、その申し出を断る方も、相手の気持ちを察して返答するからこそ意味がある。コレが本来の“遠慮の美学”である。互いが疲労困憊してる状況でも、明らかに相手の方がハンデのある状況なら無理をさせない事も相手に配慮した対応であり、“譲られて当然”とか“遠慮するのがスジ”という傲慢な態度は、結果として他のハンデ持ちの足を引っ張る態度になる。
本来の宗教哲学も、こういった“人間関係”における当たり前な立ち振る舞いを指導してるのであって、“●●するヤツは地獄に堕ちる”だの“●●は危険思想”だとかは、あくまで“方便(ほうべん:たとえ話)”である。つまり、相手を思いやる気持ちがないから、あえてそう言って脅した上で自律を促したまでに過ぎないのであり、信仰そのものに関しては、どんなスタイルだろうと願う方向性が同じである以上は、その哲学も異口同音で当たり前なのである。(ただ、その根源がドコにあるかでバトるハメになるんだが…w)
自分を律する事ができない…まるで今日の子供をめぐる環境とそっくりだと思いませんか?