迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

悪口雑言をブッ飛ばせ!!

此の経文は一切経に勝れたり地走る者の王たり師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり鷲のごとし、南無阿弥陀仏経等はきじのごとし兎のごとし・鷲につかまれては涙をながし・師子にせめられては腸(はら)わたをたつ、念仏者・律僧・禅僧・真言師等又かくのごとし、法華経の行者に値(あ)いぬれば・いろを失い魂をけすなり(千日尼御前御返事より)
(業務連絡:今月の座談会御書です。“大白蓮華”5月号、および聖教新聞5月2日付の6面参照)
この御書は、弘安元年(1278年)7月に佐渡で信徒となった阿仏房(あぶつぼう)の嫁ハンである千日尼に対して宛てた消息文(手紙)です。この夫婦は、日蓮佐渡流罪の折に出逢い、そこで入門。当時は日蓮側に付く事は“逆賊行為”と見なされ迫害を受ける対象だったにも拘らず、鎌倉に戻るまでの2年以上もの間、生活支援を行なったのです。そして佐渡日本海側での布教活動の中心的人物であり、この夫婦に感化された多くの民衆が、日蓮の仏法に帰依したといわれています。(ま、そういうエピソードの中には、佐渡へ渡る船が沈没しかけたのを大きなアワビが助けた等という“アンビリバボー”な伝説もありますがw)
当時、阿仏房自身かなりの高齢者だったのだが、嫁ハンである千日尼の体力的なハンデも考え、佐渡から鎌倉経由(正確には、鎌倉で最後の国家諌暁をした後)で身延へ移った時から5年もの間、何度も佐渡と身延を往復したとのこと。ちなみに当時は徒歩での移動が主流だった訳で、片道3週間(!!)も掛けて様々な御供養の品々を持って訪ねたそうです。

で、この御書の意味だが、もう一度日蓮に会いたいと願いながらも体力的に無理だった千日尼が、ダンナの阿仏房にその代行を頼み遣わせた熱意に感嘆し、“信仰に、距離なんて関係ない”と指導し、法華経の行者としての信心を貫き通す熱意は、諸派の誘惑にも負けないと説いています。
法華経というのは仏法教典の中で唯一、女性の成仏(女人成仏)と一切の“生命体”はすべて成仏は可能である(万民成仏)を説かれた教典であり、それ以外の教典はあくまで“仮の教え”でしかないと斬ってます。つまり、どんなに阿弥陀如来像に念仏となえても、また真言を唱えて護摩を焚いても、曼荼羅を見据えて座禅を組んでも、法華経の前では無意味だとハッキリと言っちゃってるんです。ぶっちゃけ、過去の威厳に縋って民衆をバカにした僧侶に対して、いつも日蓮は仏法対話という名の喧嘩を繰り広げていた訳です。それに対して諸派の僧侶は、自分の地位を悪用して幕府官僚をそそのかし、虐殺しようと企んだ訳です。
コレを現在に置き換えると、アメリカや北朝鮮の考え方は、まったくもって日蓮や庶民をコケにした諸宗の僧侶そのものであり、日本国憲法第9条をクソ真面目に守り続けた日本は、むしろ“法華経の行者”と言えるのではないでしょうか?あの太平洋戦争で学んだこと…それは、勝者も敗者も結果的には、惨めだったという事です。日本国憲法を日本がこれからも遵守するために、近隣諸国が自分達も軍備の放棄をしない限り、日本は再び“国防のため”という大義名分のもと、過剰な軍備をやらざる得なくなります。
結局、国交を正常化させるには、無駄な兵器開発をするよりも、草の根での対話が重要なのです。それを“面倒くさい”と言って戦争ばかりすれば…おそらく地球は生物が住めない世界に変わり果てるでしょう。