迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

痛ましい話が多いんで…

まずは、コレを見てほしい。このフラッシュアニメは、人生の意味合いと生死の理(ことわり)を簡単に描かれたモンだが、内容そのものは深い。(絵に関してはキ・ニ・シ・ナ・イ!!)
愛しき人が亡くなった時は、遺されたモンは悲しみに打ちひしがれる。しかし、考えようによっては、自分達自身が愛しき人に対するしがらみを“捨て去った”という風に捉える事もできる。本編にもあるが、“いなくなったのではない、ずっとそこにいて自分達を見守っている”という感覚が芽生えると、目の前の苦難から逃げる様に自殺する事が、如何にみっともないのかがわかる。

オイラが一番言いたいのは、いつまでたっても快方に向かわないと思って病魔の前に諦めたり、今現在の地位を奪われたくないからとダダを捏ねるのは、結局自分から幸福になるきっかけを“放棄”してる様なモンだという事。同じ病を抱えながらも真っ向勝負して敗れたのなら、その死に顔は晴れやかな笑顔で厳粛な姿を示す。天寿を全うした者の亡骸程、いかにも眠ってる様な姿には、涙よりも笑顔で“さよなら”を言いたくなる。しかし、自殺者の亡骸は、大概は“穏やかな顔”と言っているものの、実際は苦痛に歪んだ跡が見える。そう、棺桶に積める際に、いわゆる“死化粧”を施されるからそう映る。しかし、オイラは(諸般の事情で)いろんな人の亡骸を見る機会があるんでよくわかるのだが、葬儀屋の苦労が滲み出てる様な亡骸程、本当は“幸せな死に方”ではなかったと思う。むしろ、死化粧する以前から半眼半口(はんがんはんく:いわゆる寝顔の様な状態)を示した亡骸は、まさに“我が人生、一片の悔いなし”という状態で亡くなられたと推測できる。
自殺者は大概、顔が苦痛で歪む。特に首吊りは舌が飛び出してるし、飛び降りは(事故死でもそうだが…)頭や顔が潰れている。コレを生前の様な状態に“復元”して棺桶に入れるのだが、惨い状態程“復元”は難しく時間がかかる。まして、“復元”できてもいわゆる“フランケンシュタイン状態”である。それもまた惨い話だが、そういう姿を見るとこっちまで痛々しくて、真っ当に見る事すらできない。ここに一念の違いが出る。苦しみの果てに見窄らしい姿を晒すか、使命を終えて笑みを浮かべるか、それは自分生き様次第である。