迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

叶わぬ願いは、“祈り”とは言わない!!

大地はささばはづるるとも虚空(おおぞら)をつなぐ者ありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りかなはぬ事はあるべからず
(業務連絡:今月の拝読御書。詳しくは今日の聖教新聞、または大白蓮華7月号参照)
コレは、文永9年(1272年)に流刑地佐渡で著し、元・天台宗学僧(当時は学問として仏教を知るために僧侶になる人もいた訳で…)、最蓮房に宛てたとされる“御聖訓”(詳細な事は未だ解明されてないのだが…)です。ま、コレが拝読御書として出てくるときは大概、国政選挙の投票日が迫っているという訳で、ポイントを言っちまうと、“完全勝利のために祈りきれ!!”という合図ですw
歴史的背景としては、最蓮房は日蓮と同じ時期位に流罪になったんだが、何らかのトラブルの“主犯”としてとらえられた挙げ句に流された様です。(ま、天台宗でもこの当時は、伝教大師の教えなど廃れてた訳で…。)で、たまたま日蓮の考えに感銘し、そこで弟子入りした訳です。ちなみに、佐渡で書かれた重要な御書の大半は、最蓮房が弟子・信徒の代表として受け取ってます。

さて、本文ですが、簡単に言っちまうと、どんな天変地妖が起きたとしても、真剣に法華経の行をやってるモンの祈りー自分の宿業を乗り越えて、真の意味で成仏したいという願いーが叶わぬハズがないと、ハッキリ言っちゃてます。
何度も言いますが、法華経とそれ以前の諸経(般若心経や大日経などの類)では“成仏”の意味合いが違います。それは、諸経で説かれる“成仏”というのは、人間の姿のままでは叶わないから、何世代にも渡る“歴劫修行”を行なうべきとなってます。しかし、法華経では“即身成仏”という概念があり、身分や性別、国や文化の違いなど関係無く、誰でも成仏できる(万人成仏)と説かれています。また、法華経の前に“無量義経”という序文がありまして、ココに、“未顕真実(みけんしんじつ:未だ真実を顕さず”と読む)”と記載して、法華経を学ぶ前に、今までの概念を捨てる様、指示しています。ですから、“念仏マンセー”な世間に対して喧嘩売った日蓮の行動は、すべて法華経の行という名の下で実践した姿であり、そこに確信があったからこそ祈り続けたのです。
本気で日本を救いたい…そう思ったからこそ、既存の仏教に関する概念の過ちを正し、実生活の中で報恩と誓願を忘れずに行なう事を提唱したのは、鎌倉時代においては日蓮であり、その哲学をもって現代を生き抜く知恵を創造していく団体が創価学会だという事を理解してください。なんで必死になって選挙運動をするのか、うるさい位に新聞啓蒙や家庭訪問を行なってるのか、すべては“みんなが幸福であってほしい”という願いからの行動であり、その為の戦いなのです。