迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

今一度、戦争と平和を考える。

ここにきて、また何だかキナ臭い情勢になりつつあります。確かに、旧日本軍は“従軍慰安婦”の問題に対する説明責任を負うべきであり、被害に遭われた女性に対して、人権の保証と賠償する義務があります。しかし、忘れては困りますが、その事を理由に白人社会が日本人をバカにするのは、お門違いもいいトコです。
戦争をやって一番の被害を被るのは、“未来の主人公”達です。その悲劇は、今なおもって続いてる情況は、果たして“平和”と言えるのでしょうか?

アフガニスタンの内乱は、そもそもはアメリカと旧ソ連の“冷戦時代”からの延長線であり、その掌の上で旧政権組織タリバンと現政府がドンパチやってる訳ですが、彼等には子供達の“絶望感”が見えないのでしょうか?もしも紛争が終わっても、その“後始末”は誰がやるのでしょう。言うまでもなく、戦とは関係が無かった子供達です。もちろん、双方の言い分はわからなくはないですが、結局は“現世安穏”のみの願いであって、将来性を見出す事などできる訳がありません。
旧日本軍でも、海軍将校の一部は、太平洋戦争の無益さを知って、何度も上層部や陸軍に“戦争回避”を訴えたのですが、結局それを言った将校達は、その殆どが激戦地沿岸の海に逝ってしまいました。祖国を思い、戦争を回避しようと尽力した者が、皮肉にも戦場でその生涯を終え、本土でのうのうとしてた旧軍事政府役人は、一部を除いて極刑を免れ、未だにあの戦争の“正当性”を訴え続けたのはいうまでもありません。今日の政治家の殆どが、そういった“亡霊”の掌で日本国憲法自衛隊のあり方について話し合ってる姿は、まさに滑稽を通り越えて哀れにも見えます。
もちろん、国家の集団的自衛権は、国際法的観点から保証されてる権利であり、その方法は“なんでもあり”です。ですが、基本的に国軍による武装をするのが一般的で、武力を持たずに対話で解決する糸口を探るのは、軍事力を持つ国にとっては“煩わしい”話です。しかし、敗戦国となった日本は、あえて軍事力よりも国家同士の対話をする方法を(アメリカに押し付けられたのが本音だが…)選んだ訳です。
でも、日本国憲法第9条(戦争放棄と交戦権の否認)は、周辺各国も武装解除と、いかなる理由があっても国土と領海を“侵略しない”という意志を示さない限り、“無意味な文言”となってしまいます。そのための対話を、今まで政府や官僚達は、公の場でやった試しがあるのでしょうか?それをやってのけた“民間人”がいても、地位の割には陳腐なプライドが許せないのか、人道的な活動家を変態呼ばわりする始末です。コレでは、先の戦争の反省など微塵も感じる事ができません。
戦争が如何に悲惨だったのか、そして、一度奪われた平和を取り戻すためにどんな思いをしたのか…そういった事を教えてくれる人がいないから、同じ過ちを繰り返してしまうのではないでしょうか。危害を加えた連中に報復攻撃するよりも、そいつらの庭先に農具と種籾を置いて、田畑を耕す姿を見せた方がよっぽど利口ですし、むしろ地道な対話こそ、相手の心の闇を晴らす“道理の剣”ではないでしょうか。それでも銃を突きつけ脅すなら、その姿を“臆病”と言ってやるべきです。なぜなら、強盗犯でもなんでも、“悪い事をしてる”という自覚があるからこそ、被害者や目撃者の消滅に躍起になって罪を重ねる…とどのつまり、自分を見失った姿がそこにあるからです。もう一度、平和を考える時、自分達が見失ってる者とは一体何か…そう考える事こそ、本当の意味での“平和闘争”と言えるのではないでしょうか。