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サルでもわかる、任用御書学講座w その1

さて、いよいよ任用試験のテキスト(業務連絡:大白蓮華10月号の巻末です)が出たんで、今週からしばらく、上記タイトルの通り、任用試験向けの“余計なトリビア”をやっていこうという訳である。とりあえずは今までやってきたネタでも解説としては充分なんだが、“試験用”という事で、学会員の会話によく出てくる言葉の意味について、ちょっと説明しておこうという訳だ。
つう訳で今回のネタ…もとい、学会員用語は、ズバリ“広宣流布”について。

簡単に言っちまうと、仏法の神髄…つまり仏の悟りである正法を人々に伝え、ひとりでも多くの人々を仏の境涯へ導くために広める行為を指す言葉っす。それ故に、何が正しくて、何が間違ってるのかを見抜く洞察力と推理が、宗教を選ぶ上での重要のファクターともいえる訳で、そのチェック項目が、以前説明した“五重の相対”でできる訳っす。釈尊ですら法華経の中でも“わが滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃茶(くばんだ)等に其の便りを得しむること無かれ”(平たく言ったら、“私が亡くなって末法になっても、それでも世界中に仏法を広めて、魔物につけ入る隙を与えるな”という意味)と説くほどっす。つまり、釈尊ですら自分が亡くなった後の事が心配で、後に続く弟子檀那にクギを刺してるぐらい大事な“哲学”だったからこそ、その意味をしっかり把握し教えを広めていくのが仏法者の“仕事”である。
だけど、釈尊はそんな大事なモンを、自分の愛弟子に託すのではなく、“地涌の菩薩”という連中に法華経を託す訳だが、それは“誰か”という事になる。そう、感が良い人ならわかるが、最初から釈尊は将来を見越して、遠い未来の生きとし生けるもの達に可能性を掛けたのである。つまり、法華経の文言を信じてくれる多くの求道者へ、そしてそのものに使える信徒に、自分が導いた哲学の正しさを実証してもらうために、法華経を残しておいた訳である。そこから導きだした神髄を、広く世間に知らしめす役目が“地涌の菩薩”という訳である。
つまり“広宣流布”とは、法華経の正当性を実証するために活動する事そのものであり、釈尊日蓮が説いた仏法が“真実”である証拠として創価学会の存在意義があるという事を導くための言葉と考えれば、スジが通る訳っす。だから、学会員の最終目標は、全世界が釈尊の“真実の言葉”に気付き、互いを理解し合える“対話による世界平和”を構築する事であり、そのための行動として日々の勤行・唱題と、友人知人に対しての折伏である訳だ。そしてそれを潤滑に理解する術が教学であり、“信・行・学”が揃って、初めて法華経の行者と言える訳である。
次回は、この“信・行・学”について解説していこう。