迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“人としての生命”って何のためにある?

寂光の都ならずは何くも皆苦なるべし本格の栖(すみか)を何事か楽しみなるべき、願くば「現世安穏・御生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引(ろういん)なるべけれ須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧(すすめ)んのみこそ今生人界の思出なるべき
(業務連絡:今月の座談会拝読御書兼、教学任用試験の範疇です。詳しくは“大白蓮華”10月号参照)
コレは持妙法華問答抄(じみょうほっけもんどうしょう)という御書の一節です。この御書は、詳しい執筆年月日や投稿先が不明な御書なのですが、一説によると伊豆流罪から赦免され、鎌倉に戻った弘長3年(1263年)に書かれた、問答形式の指導文とされてます。

拝読箇所を簡単に説明すると、寂光土(じゃっこうど:要は仏が住む世界)じゃない以上、どんな楽しみも一過的で虚しいだけであり、それだけじゃ人生もったいない。だから命がけで法華経を信じ、それを広宣流布していく人生を歩もうと諭してる訳です。
つまり、自分達が“楽しい”と感じるのは、あくまでそれまでの苦労や努力が報われた瞬間であり、その喜びは一瞬の出来事でしかありません。しかし、それを知った上で、なおも現世を“楽しむ”ために何をするべきか…コレを覚るには、法華経の行をもって仏と同じ境涯に立つこと以外に方法は無いといっても過言ではありません。言い方を換えれば、どんなに巨万な富を得ようと、どんなに地位や名声を誇っても、それらは死んでしまえれば来世にまで持って行く事なんてできません。生きているからこそ誇れるのであって、死んでから褒めたって無意味なんです。(あくまで、本人にとっては…)だから、宗教をやってる以上は正法を受持し、広宣流布していくことこそ“生きる喜び”として、人生を貫かなければいけないことなんです。
“娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど:“現実社会=仏界”という考え)”という言葉がある様に、現実から背いて快楽を得ようとしても、結局は虚しいだけであり、また、現実逃避をする以上、いずれは苦しむことになります。例えば夏休みでも、最初から計画通りに宿題を片付ければ問題は無いのだが、遊ぶのに夢中になり過ぎて、気が付いたら最終日w…なんて経験は子供の時に誰しもが経験していることであろう。それと同じで、生きる上での困難…大病を患ったり、災難に巻き込まれたり…なんてことも、真っ正面から勝負してる連中は、その結果負けたとしても悔いはない。むしろ納得した上で、次のステップへ踏み出している。(多分、菫華の君も最期になって、そういう“生き方”をしたのだろうと思う…)だが、そういう覚悟もできてないのに、つねにズルをしまくる様な生き方は、最期は逃げ切れなくなって失意のドン底に突き落とされる。
だから、“法華経の行者”である以上は、この法華経を受持し、多くの人々に語って広めていくことこそが、本来の勝負であり、それを“勝ちに行って”こそ“法華経の行者”ともいえる訳である。そのために人間として生まれたならば、その最前線で戦ってこその“即身成仏”だと悟ることこそ、本当の意味での“快楽”ではないだろうか…と、オイラは考える訳ですよ。