迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

サルでもわかる、任用御書学講座w 最終回

さて、いよいよ今週末は任用試験本番である。今までの解説だけじゃ、ちょっと足りないと思うが、そこらへんは、このBlogの“過去のネタ”に掲載してるモンだから、敢て“除外”している。(要は、自分で探してくれ…とw)しかし、それじゃちょっと不親切すぎるんで、最後に“五重の相対”とともに習う、“三証”について、ざっくりとだが解説しておこうと思う。
宗教の教学の正邪を判別する基準として、以前“五重の相対”があると説いた訳だが、もうひとつ重要なファクターに“三証”というモンがある。ペタこく言うと、宗教の教義が経文や仏典といった書物に裏付けされた証拠(文証)と、宗教の教義や主張が道徳倫理に適ってる証拠(理証)、そして宗教の教義を実践して、その結果生命や生活、果ては世界中にどのような影響が現れたか(現証)という3つの“証拠”です。

つまり、参考資料や史実を用いて解説できる事が“文証”で、人間としての生き方において道理が通ってる事が“理証”であり、様々な活動を通じて周囲に及ぼす(良い意味での)影響力が“現証”と考えると、おおよそビンゴ!って訳である。しかも、その宗教の教義が本当に正しいかどうかは、この三証すべて揃ってなければいけないのであり、どれかひとつでも欠けてる様では、“正しい宗教”とは言えません。
もうちょっと詳しく解説すると、“文証”とは、教典や聖書といった宗教哲学の書物で説かれる文言で、その教えの正しさを証明するモノであり、コレを解説するという事は、それだけ分の熟読と研鑽をやらなくてはいけないというもの。だから、現実に該当しない事例や、参考資料のないレポートを鵜呑みにするのは愚の骨頂であり、ウィキペディアが大学の論文の“参考資料”になり得ない理由のひとつとされる所以と同じです。
で、“理証”というのは、“ことわり”…つまり確かな理由であり、それを用いる事がもっとも理想的であり、話として“筋が通ってる”という証拠です。言い方を換えれば、いろんな事に使えるPCの操作方法ひとつに、通信回線を繋げばインターネットができるというのと同じ理屈です。(で、それで特定の機械を遠隔操作をする事もできるというトコまでいけば、まぁ、大凡の理屈はわかってくれると思う。)
最後に“現証”というのは、その“文証”と“理証”をもって得た明確な答えであり、影響を受けた結果なのです。インターネットという環境があるからこそ“2ちゃんねる”や“mixi"といった匿名(あるいは偽名)で交流できる場所が登場し、このBlogの様に自分の表現の場を通じて、同じ思いを抱えてる多くの“名も知らぬ友達”と情報を共有できるという社会が構築されるという訳である。
宗教もまた然りで、教典・御書等に記された御金言が“文証”であり、その主張が正しく同理に適ってる事が“理証”であり、そして現実問題として噴出した結果こそが“現証”です。日蓮だって、「日蓮 仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎす、又道理証文よりも現証にはすぎず」(意訳:この私、日蓮とて仏法を実証するにあたって、道理は正しい証文の域を超える事はなく、現証は正しい証文道理からはみ出る事はないと考える)と言ってる通り、“現証”が示す答えが、“文証”や“理証”の裏付けであり、“理証”での確かな理由がある以上は“文証”の偽りを正す必要性があるというモノです。本来でいうトコの“結果論”というのはこの事であり、いろんな能書きがあっても、その効果(成果)が実証されない限り、無意味だという事です。
ま、とりあえずコレで今回の“ムダ知識な講義”は終了。今週までお付き合い、産駒ですw