迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

捕鯨反対なら魚を喰うな!!

なんかヘンです、オーストラリアと日本の関係。ここんトコちょくちょく目にするニュースに、日本の調査捕鯨に対して、オーストラリア政府と一部の環境保護団体が結託して、妨害活動をやっているそうです。ま、こういう連中の殆どが、アポリジニをコケにし、“開拓”の名の下に環境破壊をやりまくった末裔なのは目に見えてるんだが、要するに、“捕鯨に反対する”って事は、日本だけじゃなく海洋民族の衣・食・住文化の否定をしてるのであり、自分達がやった“開発”を正当化してまで他民族の文化交流を拒んでる証拠です。
というのも、彼等の中には日本人がついついやっちまうアイヌ民族に対する差別に抗議する反面、自国の移民や原住民に対する不当な扱いを正当化する“けったいな連中”がいるんです。そう、他人の粗は見えてても、自分の潔白を証明したいがために、自分自身に泥を塗っているのがわかってないんですよねぇw

例えば、白人系文化圏の者なら、誰しもがその仕組みに不思議がる文楽人形は、元々ヒゲクジラ系のヒゲ繊維(海水から餌であるアミエビを濾し獲る為の部分)で作られたバネを差し金に仕込んで動かしてるから、あの滑らかな仕草が再現できるのであって、金属やプラスチックでは重量バランスや耐久性に問題があって、使い物にならないんだとか。ましてそれは、本来なら食料として肉をとった後の“産業廃棄物”扱いの部位から産まれたリサイクル品であり、使えなくなってもそれを肥料にする等の“再利用”も可能な訳である。また、骨だって手芸品として櫛やかんざし、銛先等に加工され、脂身もランプオイルや石けんの原材料に使われていた。同じ様にイヌイットの衣服も、アザラシやラッコといった海獣の毛皮が中心で、これらはその地域の気候に対応できるからこそ使われてるのであって、他の素材では酷寒の北極圏で生活はできやしない。
今でこそ科学の進歩で、そういうことをしなくてもなんとかなる様にはなってるモンの、その“影響”で地球温暖化やオゾンホールの拡大が進んでしまってる事実がある。つまり、人間は自然環境を克服したのではなく、自分の都合だけで自然の秩序を破壊してしまったのである。先住民族達は代々、その轍を踏まぬ為に儀式の中で自然からの恩恵に感謝し、その恵みが絶えぬ様に誓願を起てる。宗教哲学もとどのつまり、他者との共存無しでは繁栄は有り得ないという理念が基本であり、そのための訓練として慈善運動を行なうのである。それを勘違いしてるから、戦争や環境破壊、更には格差社会を生み出す結果となる。
環境が違うからこそ、それに適応した文化があって当然であり、それを否定するという事は、相手も同じだけの仕打ちをする権利が発生して当然なのである。“異文化交流”というのは、民族の垣根を越えてその違いを楽しみ、共有する事ができる環境を模索する事であって、相手に強要したり存在を否定する事は、当然ながら失礼に当る。まして、相手を勝手に“野蛮”と罵ってしまう様では、自然との共栄共存は到底できない。相手を“知らない”からこそ真摯にその歴史や経緯を学ぶべきであって、自分達を知ってもらいたいならこっちから教えてやる事も必要である。つまり、言い方としては意味が違うが“師弟共戦”とは、お互いが助け合い学ぶ事を意味する訳で、師弟のどちらがエラいという訳ではない。経験や知識が豊富で教える立場なら“師匠”と呼ばれるだけの話であって、分野が違えれば知らない知識だってある。そうなれば別分野のオーソリティーが“師匠”であって、分野外の知識を教わってる時は“弟子”である。そこには年齢や地位は関係無い。だから、相手を謙遜し称え合う関係でなければ無意味なのだ。
政治もまた然り、為政者が庶民をコケにしたら、当然ながら国が滅亡する危機を招く結果となる。日蓮が国家諌暁に提出した“立正安国論”は、仏教の経典…特に法華経を熟読して導き出した“主従協栄”の法則であり、それをコケにした結果、その通りの予言が的中したまでに過ぎない。