迷馬の隠れ家 はてな本館

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教育は“共育”な訳で…

時間も押しているんで、手短に。“育児=育自”と同じ意味で、“教育=共育”という考え方がある。つまり、子供と一緒に自分を鍛え育てるのが“育自”であり、一緒に学び育つから“共育”なのである。随分昔、TVで見たネタに、5人兄弟全員を博士にまで育て上げた母親がいたんだが、彼女の元々の学歴は、高校卒程度のモンだったらしい。しかし、子供達と一緒に教科書を開き、一緒に勉強していくうちに、彼女自身が並の教師よりも優れた知識と指導力のある教育者に変わってたという。そう、重要なのは、“師弟共戦”の姿がここにあるってことだ。

言い方を変えると、一緒に学んで、一緒に悩むからこそ、お互いの気持ちが伝わり、いつしか母親は勉学に励む子供達を思って新しい知識をドンドン学び、子供達も子供達で母親の苦労を和らげる為に、勉強の合間に家業のレストランを手伝ったのである。
本当の意味で“主師親の三徳”とは、上司と部下、師匠と弟子、親と子という関係の前に、お互いがそれぞれ違う個性の“人間”である事を理解する事であり、だからこそ互いを助けある関係でなくてはならないのである。しかし、それは相手に強要したり、自分が不本意な要求に屈する事ではない。相手を“思いやる”心から、自発的に行うから意味があるのだ。
だから決して、権力を振り回す様な暴君や、地位を利用して粋がる教師、そして子供を虐待し逆恨みする様な親には、誰も従わない。当然である。
本気で子供に躾を行うには、その傍に両親もいるべきであり、そこから寸志を改める必要性がある。“怒る”と“叱る”では、意味合いが違う。前者は個人的な意見だが、後者は第三者の意見も交じる。ココに大きな違いが出る。他人に迷惑をかけ、自分に恥をかかせた罪を、当事者自身にわからせる為にドナったり殴り飛ばすのは、決して理不尽な行為ではない。が、完全に個人的な都合…例えばアニメを見たい子供達が、勝手に父親が見てるプロ野球中継からチャンネルを変えた時に、その“妨害行為”に怒りを感じ殴り飛ばすのは、単なる我侭であると同時に、親のくだらない都合だけで付き合わされている子供に対しての虐待でもある。
ともかく、自分がとった行為に対して責任を取り、言い訳をしないのが真の意味での“大人”であり、それができてないなら、子供と一緒に人生を学び直すべきであろう。