迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

価値観の違いが許せない世界…

いつの間にそうなってしまったのでしょうか?否、最初からそうだったのかもしれません。現行の“格差社会”にしても、過去の様々な人種差別にしても、根本的な“原因”はみんな同じです。つまり、自分“以外”の価値観を認めてやる事ができない…否、自分が“勝手”に付けた価値観以外は認めないという概念が、結局破滅に追い込んでる事に気付かない。これほど哀れで情けない話ってありますか?
オーストラリアの干ばつも、ミャンマーのサイクロン被害も、そして世界中の経済が壊滅的な状態になりつつある事も…すべては“相手の施しに感謝する”という単純な事を忘れ、傍若無人な振る舞いがまかり通ってる事が起因になってる様に見えます。誰かの助けがなければ、ここまで発展する事もなかったのに、それを感謝するどころか“自分の成果”にすり替えて、いつしか協力してくれた仲間を裏切り、それどころか侮辱して切り捨てようとする姿は、まさしく“忘恩”の咎をいつ受けても仕方がないです。

“生き残りたい”とか、“幸せになりたい”とか、理由は様々ですが、何らかの欲望があるのは、人間である以上仕方がない部分です。が、だからといって、自分の親を蔑んだり、師匠をコケにしたり、君主を陥れてその座に就かんとする態度は、やがて自分をダメにしてすべてを失う…このBlogでも散々やってきたんで常連さんならわかってもらえるとは思うが、自分の今あるポジションってのは、多くの場合は誰かの助言や支持があってこその話であって、それに似合う報恩をやってるかどうかですべてが決まる訳である。それを忘れた連中は、たとえ一時的に救済されたとしても、同じ過ちを繰り返し、いずれ滅亡する。報われない事など、何一つないのだ。
何もしないで最初から諦めているなら、そりゃ楽しい事も無い代わりに失うモノも無いから悲しみも苦しさも無い。だが、それ故に本当の“痛み”を知らないまま、すべてに絶望してしまう。怪我を負ったり、ヘンなモン喰って腹が痛いのは誰もが経験するけど、心理的な“痛み”ってのは、その状況にならない限りわからないし、どんなカタチで他人に訴えても通用はしない。ここに本当の“生きる価値”を見いだすきっかけがある。
相手の“痛み”がわからないから、どんな方法で救済するべきかわからない。それ故に悩み苦しむから、初めて本当の意味で“助け合う”心が芽生えると、オイラは思ってる。けど、それを実践して、通用しなかった時のショックがあるから、今一歩の勇気が足りない。そりゃ、かつて、某路線バスで893相手に啖呵切って追い払った経験がありますけど、それだって、若さ故の“世間知らずな行為”である事は、今ならわかる。けど、本当に重要なのは、傍若無人な振る舞いをする者に対して、ドコまで“叱って”やれるかである。それは、自分に対して、あるいは他人に対して責任を負う事を意味し、そこから逃げてはいけない。正義を通す以上、それが原因で生命を狙われたって構わない勇気と、自分の事を思ってくれてる者達に対してその尊厳を守る強さが無ければ意味が無い。だから、真の意味で“正義”とは、誰からも憎まれてる反面、そこにいるからこそ誰からも頼られる存在でなくてはならない。それを忘れて権威を振りかざす者は、真の“正義”ではなく単なる“悪人”である。