迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

他人のせいにしないで!!

ちょいとムカついてるんで一言。某ジャーナリストが、現在のグダグダぶりを小泉政権のせいにしてる様だが、それを選んだのは、いうまでもなく自分達であって、他人ではない。それをウダウダ言ってるみっともなさは、菫華の君を同じ様な病気と闘ってるジャーナリストかと思うと、余計に腹立たしい。テメェ、一体その余命幾ばくもない身体で、何が言いたいと…。
基本的に、人間は自分自身の精神が弱くなると、どうしても他人のせいにしたがる。だが、それで自分が救われるかと言えば、まったくの逆、むしろ苦しいだけ。なぜなら、自分自身に背中を向け、戦うべき相手から“逃げてる”から苦しいのだ。

どんな社会であれ、結局自分から“逃げた”時点で敗北は確定であり、その敗北感から自棄になって、ある者は殺人鬼になり、ある者は自らの命を絶つ。また、かろうじてそれを免れたからといっても、ただ虚しいだけで、自分で“生きてる”という実感がない。むしろ、他人によって“生かされてる”という感覚…要するに自らが“家畜”と化してるだけに過ぎない。
では、何をもって“生きる”というか…結局はどんな状況下であっても、自分の信念を曲げない、自分らしさを最後まで守り続ける心の強さを鍛えるしかない。それをいとも簡単に(というと、若干誤弊があるが…)できるのが、宗教哲学を学ぶ事であり、それを基に社会で実践するのが“修行”である。つまり、現在の社会不安や政治不信の元凶は、すべて“宗教不信”から始まってるといってもいい。
では何故、人は“宗教嫌い”になるのか…もちろん、敬虔な信徒は少なくないが、一番の原因は聖職者自身の腐敗であり、一般信徒を“喰いモノ”にして贅の限りを尽くすからである。そして、長い歴史を見ても、共産主義がもてはやされた背景も、結局は宗教絡みに辟易した結果であり、それを悪用した政治家が“教祖”となって、民衆を支配しようとした事を、自分達が見抜けなかったせいである。つまり、結局自分達自身が“生きる喜び”そのものを放棄した結果が悪政を生み、国家滅亡の引き金を引くのである。
つまり、こないだの殺人鬼にしても、電車に飛び込んだり硫化水素をバラ撒きながら自殺する連中を産み出してるのも、結局は自分自身の“もう一人の姿”であって、決して“他人”ではないのだ。
逃げたい気持ちは、オイラだって多々ある訳だが、でもそこから“逃げた”としても、決して幸せはない。むしろ、“逃げた”事を後悔し、苦しくなるだけだ。何度寂しさで涙を流そうと、悔しさ、腑甲斐なさを嘆こうとも、決してそれは“逃げ”ではない。戦ってるからこそ感じとれる、胸の奥の“痛み”が自分を突き上げ、前進する力となっている。それをどう使いこなすか…その為の“修行”の場こそが、自分の居る場所そのものであり、それこそ仏教で言う“娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど:直訳すると、今居るトコすなわち仏界なり)”という意味だ。最悪な状況でも、自分自身が納得していれば大した事じゃない。むしろ、些細な事でも大切な事と自分が思えば、人生の大きな分岐点となる。大人げない世代だからこそ、こんな事が言えるかもしれないが、社会に不満が多いのは、今まで自分自身の“甘え”と戦わなかった結果論であり、それが嫌なら今からでも間に合うのに戦わないのは、自分の中に“自分”が存在しないからだ。