迷馬の隠れ家 はてな本館

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“出世の本懐”とは、コレ如何に?

日蓮仏法に触れていると、必ずと言って良い程出てくる言葉の一つに“出世の本懐(しゅっせのほんかい)”というのがある。もちろん、仏教用語として捉える場合、仏門に入って悟りを開く事を指してるんだが、本来の意味とは、かなりズレた解釈といってよい。てのは、釈尊の場合は“人類救済”を行う事がそれであり、日蓮の場合は“広宣流布”を行う事がコレに該当する訳で、言い方と変えれば、この世に“人間”として生まれてきた理由と、その使命を端的に表した言葉が、コレの本来の意味と言って良いだろう。

では、なんでこんな話をオイラがするのかって言うと、折角“ヒト”という姿で生まれながら、将来を悲観して自殺したり、覚悟もないのにエエ加減な態度で“人間放棄”してるのが、もったいないと感じるからだ。つまり、誰にだって生まれながらの“使命”を背負い、それを果たす事が一番の願いじゃないのかと考えるからだ。宗派によってそこらヘンの考えは違えども、基本的に、自分自身の人生を第三者が代わりにやってくれる事はできないし、オイラも誰かの代わりを務める筋合いはない。が、どうもおせっかい焼きな性格が災いし、また、お人好しすぎて他人の責任までも、まとめて背負い込んでしまう。でもって、自分の仕事ができないのを他人のせいにし、責任逃ればっかやって迷惑をかけてるのが現実だ。選挙もそうだが、布教活動だって、オイラ自身は“面倒くせぇ…”と思ってる。だが、そうやって逃げてても、結局しんどいだけだ。
肝心なのは、そうやって“追いつめられた状況”でも、笑って戦える精神状態に持っていく…つまり、生まれ持った“宿業”と向き合い、そのぶぶ運も含めて“自分”であると認めてやる事こそ、相手の精神をも揺さぶる力に変わるのだ。その一念があるかどうか…そこに意味があると、オイラは思っている。生命に関わる大病を患い、事故などで身体が不自由になったり、仕事でトラブルを抱え込み、人間不信に陥っても、“自分”と向き合い、正しくそれを受け入れられる覚悟と、そんな“弱い自分”を打ち破りたいという志が一つになった時こそ、人間として生まれてきた意味を知る時だと、捉えた方が良い。どんなに、辛く悲しい出来事が過去にあったとしても、そこに踏み止まることはできない。否、踏み止まっちゃいけない。それを乗り越え、未来へ希望を継いでいくことが、今のオイラにできること。だから、今日もこのBlogに、自分の想いを書き綴る。ただ、それだけっすw