迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

My favorite announcer vol.48

やっと今年最終の“My favorite announcer”シリーズ更新です。いや〜それにしても、毎月2人紹介するのは、正直しんどいですw ま、来年からは、いつものペースに戻しますが…。
という訳で、今月の組み合わせテーマが“ラジオの歴史を語る者…”として、やっと“大御所”登場です。LFニッポン放送の深夜といえば“オールナイトニッポン”だが、その黎明期に活躍し、そしてふたつの偉業を達成させた“孤高のDJ”こと、糸居五郎アナの話です。手元資料が少ない関係で、昔見た某テレビ番組での話を中心に、記憶力勝負で纏めます。確かに、DJという職業を初めて語ったのも、そしてFM局を中心とした放送スタイルの確立を目指したのは、糸居アナの功績ですが、それ以上に、過去において日本人らしからぬ行動が、時として当時の軍事政権下の当局にマークされていた事もあったとかなかったとか。今存命であれば既に、90歳近い年頃。しかし悔やむなら、時代は残酷にも彼よりも先んじて進む事はなかった…戦後の復興と多くの民放ラジオ開局に立ち会い、そして当時日本人で唯一、ビルボードのチャートをイジる事ができた存在として、命日を前にリスペクトしようという訳だ。

糸居アナぐらい古いアナウンサーのデータとなると、ほぼNHKに行き着く。が、オイラの読んだ事がある資料には、その存在は“抹消”されている。というのも、糸居アナが“アナウンサー”としてデビューしたのは、今は無き満州国…現在の中国東北部内モンゴル自治区黒竜江省などがある付近である。そこに、満州放送というNHKの“子会社”みたいな放送局があった。つまり、表向き上、満州国と当時の大日本帝国は“別モノ”として扱わないと、“満州国=日本の植民地”という事実を隠せない状況だった訳である。そんな満州のラジオ局に、弱冠20歳にしてアナとしてデビューする訳である。
この際だから歴史の話をついでにやっておくと、大日本帝国時代の教育制度は、現在と違って義務教育は小学校(尋常初等科)までで、中学以上は基本的に、本人の知力と家庭の経済状況次第な部分が殆ど。その為、若くして4年制大学を卒業できた訳である。(で、頭脳優秀だが経済が…ってモンが、挙って軍隊の士官学校に入学してたって訳だ。)
ただ、戦時下故に自由な放送などできる訳じゃなく、その殆どがニュースばっかりだった訳である。そして、もっとも辛かったのが、音楽に関する“制約”である。そう、当時の軍事政権は庶民に対し、洋楽のレコードを没収・処分していったのである。つまり、ラジオのBGMですら検閲が入り、欧米のクラシックやジャズの類は“放送禁止”だったのである。戦前から、アメリカのラジオ放送のスタイルに憧れていた糸居アナにとって、これはマジで我慢ならない部分であったが、折角アナになって放送に携われる様になったのに、コレで逮捕されるのを嫌い、敢えて“法令遵守”するフリをして、自分が担当する深夜の時間帯の放送終了時に、こっそりと隠し持っていたジャズのレコードを掛けていたんだとか。終戦後、なんとか満州から引き上げる事ができて、日本に戻ってきた時、NHKの再雇用枠から外れた(おそらく、ジャズの件が引っ掛かった)為に、一時はマイクの前に座れなかったのだが、民放ラジオ開局の話に乗じて、京都へやってくる事となる。そして、KBS京都開局に立ち会う訳である。数年後、なんとかLFへ腰を落ち着ける事となった。
KBS京都時代に、実はジャズを主体にしたラジオ番組をやっていて、コレが後に“オールナイトニッポン”のスターティングメンバーとして登場するきっかけとなる。そして、現在も放送され続けている長寿番組のスタートを飾ったのは、月曜の担当だった糸居アナだった。そのスタイルは、まさにアメリカンDJさながらの、スタジオ内のターンテーブルとミキシングコンソールを駆使し、自分が聞き惚れ、気に入った曲を、放送時間一杯にできるだけ流していこうというスタイルだった。それは、多くの音楽好きには受け入れられたものの、皮肉な事に、そのスタイルは一時、見捨てられる運命を辿る。そう、音楽よりも、リスナーとの駆け引き…つまりトークセッション主体の放送形態へ、“オールナイトニッポン”は番組内容をシフトさせたのである。コレが原因で、LF内で孤立する様になる。そんな中、50歳の誕生日に“ある計画”を実行する事になる。そう、伝説の“50時間マラソンジョッキー”である。誰一人として、“完走はムリ”と考えてたのに、糸居アナは涼しい顔してこの日の為に用意したレコードを回し続け、無事完走。しかし、それは“オールナイトニッポン”からの降板と引き換えの運命でもあったのです。
年齢的な事情や世代交代を理由に、自分が作り上げた“ラジオの世界”を無理矢理引き剥がされた時、言い知れない怒りと悲しみが彼を襲い、昼間のリクエスト番組を担当させられた姿は、ファンをがっかりさせただけでなく、糸居アナ自身も相当傷付いた。しかし、多くの音楽好きが、そして、洋楽をもっと聴きたいと思った若者達から挙った“糸居復帰”の声が、LFを突き動かした。そして空白の3年間を乗り越えて、再びそのDJスタイルは、深夜の時間に帰ってきた。ここに、“オールナイトニッポン”の黄金期を盤石にした伝説が、ここに刻まれたのである。
それから6年後…還暦を迎えたのを機に、糸居アナは自らの意思で番組を降板する事となる。その最終回は、LFの玄関先に特設スタジオを設け、そこで記念放送をやった。そして、多くのファンや関係者が見守る中、全国のラジオリスナーに自分のスタイルを心に焼き付ける様に、自分か選曲した曲を次々と流していった。時に、当時流行始めたテクノだったり、古いジャズの名盤だったり…そこには糸居アナだけが知ってる想いが一杯詰まっていた。それから3年後…彼は、食道癌でこの世を去る事となる。それ以来、命日である12月28日は“ディスクジョッキーの日”として、今は記念日のひとつとして制定されている。