迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

僻みが多いと、自分が腐る?!

本来なら“創価学会の話”として取り上げたいトコだが、今回は“哲学独り言”としての話w 近頃、学会憎さ余ってトンデモ本の出版が相次いでいる様だが、オイラからすれば、どの本も内容は同じ。図書館でざっくりと流し読みしたが、よくもまあ、選挙で世話になっておきながら、自分が役職に就けなかった事や不正行為を見逃してくれなかったからと、まるで“王様”気取りだねw むしろ、こんなヤローが該当する選挙区にいたと思うと、有権者であるこっちがいい迷惑というモノ。何考えているんでしょうかねw 基本的に学会は、公明党の“後援会”ではない。むしろ“ご意見番”だw 自分達の“代表”として送り込んでる以上、公職選挙法に抵触する様な不正行為に対して、党として除名や追放といった厳しい処罰を下すのも、組織としての責任であり、それがあるから有権者に対して情報公開を率先してやってるだけである。それを勘違いしてるんだから、よほどオツムがめでたいというか…

指導者に対して、牙を剥くのは大いに結構だが、ペットですら飼い主に忠誠を誓ってる以上は、よほどでない限り噛み付いたり暴れる事などしない。それを踏みにじった上に、世話になった指導者に唾を吐くとは、不知恩の極みである。まして“カルト教w”などとバカにしてる行為、完全に自分にうぬぼれていやしないか?
相手をバカにするという行為は、逆を言えば自分をバカにしてるのと一緒。ただ、相手を見て羨ましがってるだけの話だ。それは何も、個人レベルだけじゃない。世間や周囲が自分をバカにしたからといって、そういうのをいちいち気にしてたら、何もできなくなる。まして、国籍や宗教の違いでバカにされたのなら、なおさらである。なぜなら、相手はその輪に入れない事を、僻んでるだけだからだ。
文化の違いや思想の違いなんざぁ、住む場所や宗教観が違えば、違ってて当たり前だ。それが“個性”であり、自分と相手という“区別”をつける、人生の“ダグ”だ。コレを“自分の方がふさわしい”だとか、“どうせ自分は…”と“自分”という存在を否定していたら、結局自分を傷つけるだけである。忘れちゃいかんが、自分の人生など、他人が主役として演ずる事などできない。言い方変えれば、どんなに誰かの“代理”として主役を張っても、演劇の上では成り立っても、本物ではないという事だ。わかりやすく言えば、オイラ世代の“ルパン三世”は山田康夫の声であって、栗田貫一のは“モノマネ”でしかない。つまり、その事を知った上で栗田貫一はルパンを演じてる訳であり、それ故に“栗田ルパン”として評価されているのだ。もし、栗田貫一がその事を勘違いしていたなら、もっと厳しい批判が飛び交って当然であり、放送局や原作者のモンキーパンチも、“ルパン三世”の続編を作ろうなんて、考えたりもしない。これが答え。
競馬実況もまた然りで、どんなに薫兄やきよぽんのマネをしたって、それは単なる“猿真似”であって、本人の実況じゃないから意味がない。況や、菫華の君や菊花の君、桜花の君を追い越したいなら、彼らが残した技術を継承するとともに、“自分らしさ”を出してこそである。しかし、だからといって基本を忘れて怒鳴るだけなら、実況アナ失格である。(そういう意味では、コバマサジダンの実況は評価できるのであって、それを勘違いしてる雷犬は…)
本気で相手を憎むなら、それを自分の感性や技量を磨く方向に向ければ良い。悪いが、自分を見失うほどの怒りは、いつしか誰も助けられない“精神の迷宮”を生み出す。それを解く事ができるのは、それを作り上げた自分以外いない。