迷馬の隠れ家 はてな本館

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ネグレクトと介護自殺、奇行の“共通項”は?

 大阪市西淀川区千舟2丁目の市立佃西小4年松本聖香さん(9)が行方不明になっている事件で、大阪府警捜査1課と西淀川署は23日、同居の男(38)や母親(34)らの事情聴取を続行。「奈良に遺体を遺棄した」との供述に基づき、奈良市北東部の山中を捜索した。捜査1課は、死体遺棄容疑で同居の男と母親、知人の男(41)の計3人の逮捕状を請求した。(by:共同通信 2009年4月23日速報 抜粋)
予想通りの展開と言うか…何でこうなる前に、誰もこの子を助けてやれなかったのかというのが、率直な意見だ。で、もう一つ、
警視庁赤坂署に公然わいせつ容疑で23日現行犯逮捕された草なぎ剛容疑者(34)は、警視庁赤坂署員に取り押さえられた際、「裸だったら何が悪い」と叫び、手足をばたつかせて暴れたという。草なぎ容疑者は「全裸でいたことは間違いありません」と容疑を認めているという。(by:毎日新聞 2009年4月23日速報版 抜粋)
コレもそうだが、“真面目人間”だからって、始めから決めつけているから、ストレス発散法が飲酒になり、しかも限度を超えて大トラになる訳である。また、
タレント清水由貴子が21日、父が眠る静岡県内にある冨士霊園で死亡しているのが発見された。49歳だった。調べによると、午後1時30分ごろに清水さんと母親が倒れているのを、霊園の職員が発見。救急車が駆け付けたが、清水さんはすでに死亡していた。母親は意識不明のまま病院に運ばれている。死因は、硫化水素を吸った自殺とみられている。(by:日刊スポーツ 2009年4月21日速報版 抜粋)
彼女も、ある意味上記の者と同じ様に、真面目さが祟った部分と言えよう。(清水さんには、ご冥福お祈りします…)

しかし、この3件の事例には、ある種の“共通項”がある。それは、“孤立無援”であるという事だ。スタイルは違えど、一見、いろんな人々と繋がっている様に見えてても、当の本人(小4の事件は被害者よりも母親)自身が感じていた胸中は、誰も理解できないハズだ。そう、“心の闇”ってヤツは、当人自身が相手を信用していない以上深くなるだけで、それを照らす光(=哲学)も届かなくなると、後は本人が我に返るまで暴走するだけである。その方向性が、自殺であったり泥酔状態での奇行であったり、ネグレクト(育児放棄:今回の場合は虐待も含む)したりする訳である。
オイラが思うに、共通してる事は、安易に周囲の人間が、その人の活動に対して、事情も知らずに“頑張れ”と言ってる事が“引き金”になってるのではないか。特に、高齢者や身障者介護に携わっている家族にとって、この言葉程、精神的に傷付くモノはない。意外と知られていないが、自分達でできる範疇を超える介護が、あまりにも長きに渡って続いている訳で、それ以上に“頑張れ”と言われても、何をすれば良いのか、あるいはどこをどうすれば良いのか、その“提案”が欲しいのに提示されない事が、非常に辛いのだ。当然だが、子育ても同じ。行政サービスがあっても、条件が合わない(夫婦共働きで帰宅時間が19時を超えるとか、定員オーバーで使えなかったとか…)ために、なくなく無認可の保育園でのサービスを受けざる得ない家庭もある。況や、シングルマザーや寡夫で再婚(予定者)相手がいるとかになると、結局元の旦那一族(あるいは母親の一族)が子供を引き取らざる得ない。しかし、昨今の女性は、世間的に“強がり”が多いため、結果として我が子に八つ当たりをする母親が増える。ネグレクトに関しては、オイラは未勝利馬だし、受けた経験がないからわからんが、要するに我が子でも自分の人生において“邪魔だ”と感じるから、こうなるのではなかろうか。
もう一つ言えるのが、世間が“宗教哲学”の本意を知らなさ過ぎる…否、誤解している事が、こういう結果を招くという事だ。つまり、“人間関係”というのは、一筋縄ではいかないから面白いのであって、しんどいのであるw その事は法華経にも“文底秘枕(もんていひちん:仏教用語…というより、日蓮が説いた教えの一つ。重要なのは、教典のきれい事ではなく、その奥に隠された真実を、自らが感じとる事とされている。)”されている。言い方を変えれば、誰にだって精神的に“誰にも知られたくない姿”ってのがあり、同時に、“本当は理解して欲しい部分”てのも隠している。しかしそれらは、いつも“表裏一体”なので、理解するためには、本人と同じ体験をやってみたり、いろんな人との対面・会話が必要となる。情報を仕入れるのも同じで、そこから学ぶ事は、千差万別である。
つまり、周囲の宗教観に騙されて、しかも一人ではムリだってわかってるのに、“他人にバカにされたくない”とか“他人とは違う”と意地を張るばかりで、結局自分が“道に迷ってる”ことに気付かないまま、破滅していった姿が、コレという訳だ。
創価学会を愚弄する人は、今でも大多数だと思う。けど、そういう人に限って、最後は学会の“理念”に縋る。勘違いして欲しくないが、祈っただけで願いが叶うなら、とっくの昔に菫華の君やマーティの“生前さん”を病魔から救えたハズだ。でも、現実はそうじゃない。そう、彼等に対して折伏もしてないし、況やオイラの知り合いに折伏なんぞしちゃいない。(いや、威張れる様なモンじゃないんだが…w)“願いが叶う”のはあくまで、それに似合うだけの修行…というより、活動努力があってこそであり、ただ唱題をやっても何も社会奉仕や勉強をしなかったら、無意味である。つまり、自分自身の傲慢さ(弱さ)に“戦ってナンボ”である。それを理解せずに、逆に“怪しいカルト集団w”と罵ってるのなら、どんな社殿・仏閣を訪れて祈ろうが、たくさんのお守りやお札を持ってても、ましてお呪いをやったとしたって、効果はない。なぜなら、それらはあくまで、“人生という名の戦い”の前に自分を奮い立たせるきっかけであって、単なる即効性の効果を期待しても却って本質を見失うだけである。
重要なのも、社会や世間のせいにするのも、時には必要な部分であり、かといって、そればっかりでは自分を見失うだけである。そうならない為の“対話”を重んじたのが、学会流儀の活動であり、そのきっかけとして、聖教新聞の購読促進や、国政などの選挙での(公明党)支援があるといっても良いのだ。(一部のキリスト系宗教団体でも新約聖書を無償配布したり、神社の氏子や寺院の信徒が境内を清掃したりするのも、実はそういう類w 宗教団体でこういう事をしないトコは、大概が“資産隠し”としてのダミーであると考えていい。)