迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

My favorite announcer Vol.53

今月も懲りずにお届けする、このBlog名物の“My favorite announcer”シリーズ。今月は久々に、MBSからピックアップ。ま、春改編も乗り切って、ますます調子扱いてる…もとい、絶好調な、小守康範アナの話です。彼の場合、入社の時からいろいろ話題がありまして、そのうちの一つが2m近くある身長で、同期の森本アナ(彼でも180cmある)や時さん(今は若干背が縮んだが、それでも180cmオーバーw)よりも背が高い(入社当時で196cm。知り合いから聞いた話では、今はもっとデカなってるらしい…)為、当時から“日本一背が高い局アナ”がキャッチコピーでした。が、新人時代から期待されて活躍してた事が、却って慢心を生み、その結果“とんでもない事件”を引き起こしてしまった訳です。ま、現在でこそ早朝ラジオのパーソナリティーをやる傍らで、結婚式などでのビデオレターやCM等を手がける制作会社の“社長”という肩書きを持つ、起業家としての活躍も目立ってますが、そのきっかけになる部分も含めて、今回は取り上げましょう。

アナウンサーとしてデビューする前、既に彼はバイトで、NHKに出入りしてました。と、いうのは、当時小中学生を対象にした情報番組、“600こちら情報部”なる番組の、学生レポーターとして活躍していたんです。この番組の話をし始めると、オイラぐらいの年齢には懐かしい反面、本題から外れるんで割愛させてもらうが、夕方の総合テレビでコレは、なかなか画期的な番組だったんじゃないかと、オイラは考えている。(今でいえば、“天才テレビくん”に該当する番組w)この経験から、将来は放送局で、しかもアナウンサーや報道記者として仕事がしたいと思い、やがて地元である大阪のMBSへ入社する訳です。ただ、問題点も多々あって、特に背が大き過ぎるために、背丈が170cm前後しかない先輩アナ達の方がビビってしまい、指導するにしても結局は時さん経由になるケースが殆ど。逆に言ってしまえば、時さんも新人時代に背丈の事で散々嫌味を言われたクチなんで、そういうトコらへんはよくわかる訳で、ちょっとでもミスをした時には、その注意点を先に時さんが指摘して、その後で他の先輩アナ達が“口激”するパターンが多かった訳です。
しかし、アナウンス技術…というより、話術に関しては最初から才能があったんで、入社して新人研修終了と同時に、いくつかのラジオ番組でレギュラーを獲得するだけじゃなく、ナイターオフには単独のラジオ番組を担当させてもらえる程、大活躍をしたのです。が、同期の森本アナと違って、スポーツ実況のセンスがなかったらしく、それ故に入社3年目以降は、スポーツ中継のスタッフとして活躍する事は、殆どありませんでした。そしてそれは、“あどラン”での扱われ方にも大きく左右される結果となっていくのです。
スポーツから“戦力外”とされると、その傾向はラジオのワイド番組に特化する様になります。その最たるモノが、土曜日の昼間にやっていた“ノッてる土曜日KOMORIです”という番組で、この番組が制作される事を受けて、競馬中継がCRKに“バシルーラ”した訳です。(番組内でも中継は入ってたんですが、競馬ファンから不評を買ったため、CRKに番組をレンタルする様になったんです。)しかし、この事が後に、大問題を引き起こすきっかけともなる訳です。
それは、“MBSナウ”の刷新のために、平松市長からアンカーを引き継ぐ事が決まった時に発覚した事で、ある取材でインドネシアに行った際、現地の航空会社のローカル路線で、搭乗した飛行機の機長が余計な事をやらかした訳です。そう、本来なら旅客航空機の操縦は、緊急事(操縦士が急病で意識を失い、操縦できない状態)以外は訓練を受けた操縦士以外やってはいけない規定があったにも拘らず、しかも営業路線で他の乗客が搭乗してるにも拘らず、彼を操縦席に座らせてしまった訳です。当然ですが、コレは命に関わる法律違反を犯している訳ですから、いくら機長の“粋な計らい”とはいえ、実際に運行中の時は断るのがスジというモノ。それを安易に信じ、操縦桿を握った訳ですから、当時の運輸省も(海外の航空会社のローカル路線での出来事とはいえ)カンカンになったのはいうまでもなく、罰として“あどラン”以外の担当番組全降板と、“MBSナウ”の次期アンカーからの除外、そして半年間の謹慎処分が、MBSから下されたのです。余談ではあるが、コレの煽りを受けて馬野雅之アナが次期アンカーとして“昇格”し、それが後に、“Voice”のアンカーを務めるきっかけとなるのです。
しかし、その“制裁”はある事がきっかけで“帳消し”になります。そう、あの阪神・淡路大震災で、被災地の神戸市内に取材に行けなくて悶々としていた報道記者に代わって、神戸市内で比較的安全な場所に住んでいた彼が、バイクで現場を取材していったのです。中型バイクに乗れた事が幸いし、また、道路状況が悪くてもバイクならなんとか入れる事もあって、神戸の惨状を伝えるために、縦横無尽に走り回ったのです。そこで、ラジオでのレポートをやる代わりに処分は“一時保留”という事となり、事実上の復帰となった訳です。皮肉な話ですが、もし、震災がなかったなら、復帰どころか他部署への配置転換もあり得たのは、いうまでもない事実です。
処分が解けてアナウンサーに復帰しても、看板番組を持たせてもらえる事はなく、“あどラン”の後継番組だった“うきうきハレルヤ”が大コケした後、彼は進退を考える様になりました。そんな時に大好きだった祖父が他界し、生前よく口にしていた“企業のコマになるよりも、小さいながらも起業家になれ”という言葉を胸に、MBSを退社する事となるのです。そして、MBSで経験した番組制作のノウハウを活かして、ビデオレターや紹介ビデオの制作をやる会社を立ち上げたのです。だけど、多くのファンは彼に対して、マイクの前に戻ってくる事を願い続けていたのも事実で、いくつかの単発番組での出演を経て、朝の時間帯での“レギュラー復帰”を果たした訳なんです。
そういえば、新人時代の時にはヘンテコな趣味がありまして、セーラー服フェチが高じて、塗り絵をチマチマ作ってた事があるとかないとかw また、彼もかなりの“鉄ヲタ”でございまして、特に車両フェチなモンで、新型車両が導入されるというニュースが入ると、仕事そっちのけでカメラ小僧になることもしばしばw 馬野アナともども“鉄道談義”となると、かなり白熱するのは必至。(つうか、男性アナって、結構“鉄ヲタ”が多い様で…w)