迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

戦争と平和 ―表裏一体の人間模様―

今日は、64年前に広島が世界で初めて、原子爆弾によって被爆した日である。だが、そのきっかけは日本が真珠湾を攻撃したことから始まってる様な気がする。もちろん、日本が東アジアに展開してた欧米諸国相手に戦争をしなければ、おそらく世界は今以上に白人以外は奴隷になってたと思うし、地球温暖化はもっと進んで、殆どの国が砂漠化してたかもしれない。言い方変えれば、双方のエゴが結果的に、何の罪もない子供達の“未来を奪った”だけの話だ。

戦火が絶えない地域では、むしろ戦闘がある事に慣れて、それ故に軍服や戦車に憧れを持つ。そして、家族を失う度に、その恨みが闘争に駆り立てる…それが完全に“日常化”している。60数年前の日本も、そこんトコは同じだ。しかし、そんな戦争に疲弊した人々は、口を揃えて平和を訴える。だが、なぜかその声がみんなの心に届くのは、真っ先に平和の尊さを訴えた者が絶えた後である。
確かに、傷付いて痛い事も、大切な人を目の前で失った悲しみも、わからなくはない。けど、だからといって、“みんなが同じ”とは限らない。また、理解してやりたくても、“他人”である以上、その“痛み”も“苦しみ”も、“自分”じゃないからわからなくて当たり前だ。持っとキツい事を言えば、自分の痛みをわかってもらいたくて相手を傷付けても、相手の痛みを知ろうとしない限り、それはイーブンではない。だから、喧嘩は絶えない。
戦争と平和は、常に相反する位置にあると思われがちだが、本当はそうじゃない。真の意味での“平和”とは、相手の認め合い信じ合える関係でなければ達成できない。まして、対話を拒否した時点で、自分の言い分“だけ”という都合主義は通用しない。迷惑を掛けた分だけ奉仕をするのは当たり前だが、だからといっていつまでもその態度で相手を見下し続けていれば、必ずそれ故の被害を喰らう。言い方を変えれば、どんなに恨みを晴らしたからといって、大切なモノは戻ってこない。家族や友人も、そして故郷もだ。
長年、恨み憎しみ抜いた結果、すべてを失って、更に泣き崩れるのは、結局自分自身だ。ただ単純に、独り善がりな“恨み”を抱えてる事で自己満足してるから、周囲が見えなくなっているだけだ。戦争の根原は、結局、満たされる事のない“精神的憂い”が暴走した姿であり、自分自身がその事に気付かない限り、同じ事を何度でも繰り返す。心が寂しい…その原因は、結局は自分の希望通りにならない事への不満と、満願成就しても満たされないのは、“誰かを不幸にした”という事実があるからだ。他人の幸福を願うばかりで、自分自身の幸福を実感できないのと、他人を恨み過ぎて“自分は不幸だ”と嘆くのでは、まったく意味が違う。しかし、最もの不幸は、“自分以外は関係無い”という概念だ。現代社会において、これ以上の不幸はない。だから、ストーカー殺人や無差別通り魔犯罪が多発し、その犯人は“本懐を遂げた”と勘違いして、自害してるだけに過ぎない。寂しさ故に、誰かに構って欲しい反面、どういう風に他人と付き合えばいいのか、誰も教えてくれないから、凶行以外での自己アピールができなくなる。オイラみたいな“変態w”には、人間以外の“ともだち”がいる限り精神的にはなんとかなるが、本来は健全ではない。でも、いろんな意味で他人を傷付けない分、人畜無害といっても良い。なぜなら、他人の痛みすらわかる性格だから…否、“他人”だからこそ不幸になって欲しくないから、一歩引いた場所からモノが言えるのだ。そこには、他人の幸せを素直に喜べる“お人好し”な部分と、“他人”だからこそ突き放せる部分が同居してるからできるのであって、どっちが欠けても相手を傷付けるだけだ。
すべてが信用できない…そんな世知辛い時だから、古典的な偶像崇拝が流行り、呪いや占いの結果に頼ってしまう。言い方を変えれば、自分の都合のいい方向へ“流されている”から、人間を信じる事ができなくなっているだけであって、相手を裏切れるのも“他人だから”という理由だけで自分自身を“捨てて”しまっているのだ。それを自らが認めない限り、悲劇は繰り返される。