迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

信じる事=愛する事…

21日の午前、芸能界きってのおしどり夫婦だった女優の南田洋子が亡くなった。ここんトコ姿を見ねぇ…と思ったら、認知症になってしまって、俳優で夫の長門裕之に介護されながらの生活だったという。オイラも幼い頃から、この夫婦の事をテレビで見てたから馴染みがある。悲しいという感情よりも、むしろ、とても“幸せな最期”だったのではないかと思える。だって、生涯傍にして、そしてダメになった自分を捨てずに付き合ってくれた人の温もりを感じながら逝ったのだから、遺された者は辛いけど、亡くなった側はむしろ、清々しい気持ちで“新たな一歩”を踏み出せたと思う。それはそれで、信じてあげて欲しいし、愛してくれてたからこそ最期は“相方を自由にしてあげたい”という気持ちは尊重してあげるべき事だと思う。

で、その数日前には、フォーククルセダーズの加藤和彦が自殺したという一報が入った。同じメンバーで現在は精神科医北山修は、“自分を追いつめ過ぎたんじゃないか”と言っていた様だが、オイラは違うと思う。むしろ、自分の存在を“消したい”と遺書を綴っている時点で、別の意味がある様な気がする。そう、世間を、そして人間そのものを信じる事ができなくなった事が、すべての様な気がする。おそらくそれは、ヒデボーの“生前さん”が最後に感じた精神状態を合致すると思う。
で、ここからが本題に入るのだが、最近、“信じられる事”がめっきりと減った様な気がしないか?もっとツッコむと、“愛すること”の意味を、どっかで忘れ去って生きていないか?オイラ自身が一番感じてる事…それがこの部分だ。“自分を信じる”事すらウザくなってきてる様な気がして、オイラは仕方ないのだ。
確かに、昨今の犯罪は、その殆どが“人の善意を悪用した”ケースが殆どで、それ故の詐欺が頻発している様に見える。そして、こっちがよかれと思ってやった行為を、逆に怪しまれて“犯人”としてでっち上げ、まるで極悪犯の様に扱うケースが多い。これも“人間不信”が高じた結果だと思う。そこには、“保身のため”という大義名分の下において、とんでもない誤解で他人の“思いやり精神”を踏みにじってるという感覚が失われているからだと、オイラは切に思っている。そう、“相手を思いやる”という精神は、どんな姿であっても尊い。が、それに甘え過ぎて、いざ自分が他の誰かに善意を施そうと思っても、それが伝わらなくて悔しい思いをし、そしてどうすればいいのかわからなくなって、やがて何もできない自分に嫌気がさし、とんでもない方向に行ってしまうのではなかろうか。
不軽菩薩が“何人にも仏となる機根がある”と信じ、常に頭を下げ続けた姿を、ある人は蔑み、ある人は不気味がり、そしてある人は、危害を加えた。それでも不軽菩薩は、悔しい思いも胸の奥にしまい込み、誹謗中傷をものともせずに、その仏心を貫いた…その“信心”こそが、今の日本に欠けてる、本来の“日本人らしさ”じゃなかろうか。そして、自分の五感を研澄ませ、感じるままに世間を、あるいは出逢った人々を慈しむ、献身的な真心こそ、本来の“愛”ではなかろうか。そこから発した思いを、すべての人々にわかって欲しかったからこそ、自らの命を投げ出してまでも仏道修行に打ち込んだとするなら、それを愚弄した者は、いかなる罰を受けるべきなのだろうか。
“愛する”というカタチは、万人共通ではない。でも、それを理解してやるには、とても時間が掛かる。でも、ひとつだけ“同じ”なのは、純粋なまでの“信心”である。この場合は宗教哲学の範囲ではなく、相手のすべてを“信じる”という慈悲だ。そこには情だの下心だのといった、邪な発想は存在しない。ただ、いろんな意味で“心が満たされる”という次元の話だ。だから、愛されていた事を感じている人は、死してもその思い故に、遺された者の行く末を案じる。逆に、そんな感情を持ち合わせていないなら、その死をもって忘れ去られる。オイラがGQ達の“生前さん”達を忘れない様に、“一緒に生きる”という確信を持って慈しむ事が、最善の供養だとオイラは思ってる。そして、それを信じてくれているをオイラ自身が信じてるから、無限の想像力が生まれる。どんなカタチであれ、自分の事を信じてくれる人がいる、愛してくれてる人がいると信じてるから、人は強くなれる。そして、そんな“強き精神”を持つ者が羨ましいから、あらゆる妨害を仕掛けて、潰れるのを見たいを思う邪な自分に負けるのだ。

この場を借りて、ご冥福をお祈りします…菊