迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

差別を生み出す“原因”って…

単刀直入に言っちまえば、“特別な存在”という概念そのものを、どう捉えるかが問題だと思う。つまり、昨今の“障がい者”とか“子ども”という表記でもそうだが、当の本人が気にしてない(あるいは、意識してない)のに、周囲が“差別じゃないか”などと騒ぐモンだから、問題がややこしいだけの話であり、漢字の意味や読み方などに囚われなければ、別段問題にする必要性もない。つまり、それだけ“差別”という概念そのものは、寝が深い問題だという事だ。

一番わかりやすいネタでいえば、その昔“チビ黒サンボ”という童話があったんだが、ネタの内容はともかく主人公が黒人である事と、作品の世界観が誤解を招くと言って、現在では発刊されていない。(現在では、虎がバターになって…という行が、環境保護の概念云々に引っ掛かるらしい)コレとて、よくよく考えればわかるのだが、今みたいにインターネットだの、衛星中継だのという技術もなかった時代に、しかも“南国”というイメ―ジのみで話を作ったのであれば、誤解を受けたとしても仕方のない部分である。しかし、そこを目くじら立ててギャーギャー騒いだのは、言うまでもなく、白人社会の人権団体だ。確かに、一見すると黒人をバカにした内容だと批判されてもおかしくない話だが、そういった童話は、子ども達に人生における様々な教訓を教える為の“おとぎ話”であって、現実社会とは違う世界観で描かれてても、そんなに気にする事ではない。(だいたい、アフリカの乾燥地域に虎はいないし、熱帯雨林ツンドラ地帯に、素っ裸の黒人が走り回ってる事自体、通常ではあり得ないし…)つまり、“常識”の範疇が、他者と違うだけで“おかしい”という概念そのものが、実は差別を増長させている一番の原因なのだ。
ぶっちゃけた話、“トコロ変われば…”なんとやらな訳で、それは民族や気候などによって様々な文化があり、それでなければ生活できなかった頃の名残の様なモンである。それが地域別の風習であり、個々を見分けるポイントでもあった訳で、それを“面倒くさいから統一しましょう”って考えるから、ややこしくなるだけの話である。もちろん、過去において、その“区別”を悪用して、勝手な身分制度を作ったり、交流の場を潰していった経緯がある。でも、その根原を糾すのであれば、まずは自分自身を“特別扱い”される事を嫌う事から始めるべきではなかろうか。むしろ、相手と同じ条件で(あるいは、自分と同じ条件で)同じ事をやってみる事で、何故“同じ事”ができないのかを考えてみればわかる事である。つまり、“適材適所”があるからこその話であり、それを無視して統一化したところで、組織が纏まる訳がないのである。つまり、“同体異心”だと見栄えはいいが中身がダメで、結局何がしたいのかわからなくなって、内ゲバが発生する訳である。口先で“異体同心”を唱えたとしても、その言葉の本意を知らないまま用いれば、結局はバラバラになる…一見差別的な配置でも、役割や能力を考えた時にバランスが良ければ、結果オーライになる事が多い。ただそれだけの話。だから、遊びほうけている様な人間でも、その鋭い洞察力ゆえの役割ってのがある。それを活かすも殺すも、それは現場の判断ひとつという訳だ。