迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

内外相対と因果応報

タイトルとカテゴリーを見て、“なんだ、またお得意の折伏系の話かよ?!”と思われたあーた。敢えて言おう、こないだ見た宝塚歌劇の話だよw
現在、星組公演でユダヤ人でありながらオーストリーハプスブルク王朝を陰で支えた苦労人の話をやってるんだが、その内容を見ながら、ふと頭に浮かんだのが、日蓮折伏のあり方である。正確に言えば、“正しく聖教を広宣流布するには、既存の布教と対立する”という図式。つまり、本気で布教する気があるならば、固定概念に縛られて批判する事よりも、まずは“相手を理解する”という気概を持つ事こそ重要という事だ。
(詳しい内容は、2月12日以降、東京宝塚劇場でやるんで、ファンの為に、ここではオフレコw)

で、本題に入るんだが、トコロ変われど、“正法”を唱える者は、常に迫害と流浪が憑きまとう。言い換えれば、古いしきたりや儀礼というモノは、時として正法流布の大きな障害になる事が多い。なんせ、広く一般に、自分達が信仰する宗教の教えを流布しようとして工夫した事を、大概は長老格の者が、結果を見ずに…否、何も試さずに批判する。コレが結果として、災いを招きかねないのは、どの宗教の歴史を見ても明らかな話である。まして、他者を見下してる様な指導者がいる様なトコは大概、遅かれ早かれ滅亡する運命である。つまり、上層部が保身に走ったり、頭デッカチな輩が主導権を握っている様では、その組織自身の評価を下げかねない。当然だが、それは末端の者でも同じ。出逢った者自身の評価が、イコール“組織の態度”として、相手は受け止めるからである。
オイラは、最初に出逢った者に対して、最初から学会員である事をカミングアウトしている理由は、実はそこの部分である。つまり、普通の人は、マスコミで流れている情報“だけ”が真実であって、目の前の親友が“学会員”であるかもしれないのに批判してたら、それこそ双方が不幸である。だから、先にカミングアウトしておく事で、上辺の情報だけに惑わされてはいけないという“実証”を示す事にもなる訳である。逆を言えば、それ故に折伏を警戒されてしまうからこそ、敢えてオイラからは折伏をしない代わりに、他の学会員から折伏された時に、理解できる為の道筋は作れる…という訳だ。(←かなり他力本願w)
事実、オイラの知り合いの殆どは、コレをきっかけに、学会の理念を理解すると同時に、他宗の言い分の“矛盾”に憤懣をこぼしてくれる様になった。もっと言えば、頭ごなしに批判する人の殆どが、宗教そのものに対して“無知”である事を思い知らされるからこそ、こっちの話も聞きたくなるってことだ。
“対話”というのは、双方の相互理解の場であって、上下関係を決めつける場ではない。まして、そうなってしまうと、余計に誤解が生じるだけである。“選ばれた民”と自負するよりも、相手を“自分と同じ世迷い人”として扱えば、喧嘩をする必要性もなくなる。が、それができないから、宗教という共通認識を持つ為の“コミュニティー”が必要となる訳である。つまり、宗教そのものを批判する人の殆どは、食わず嫌いと同じです。言い方を変えれば、指導者自身がエエ加減な宗教団体が多いからこそ、宗教に対する不信感が広まるのであって、それを自浄できるトコはなんとかなるけど、それすらできない程腐ってる様なトコは、その指導も支離滅裂になって当然である。