迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

オグリと馬ぐるみ

馬ぐるみメーカーのアバンティーが、最初に作った馬ぐるみは、もちろんオグリンである。しかし、当時のコンセプトは、あくまでも“玩具”であって、競馬グッズとしての取扱ではなかった。故に、有名デパートの人形・玩具売り場ではもちろん、果てはファンシー文具取扱店でも販売していた程、オグリン現役時から90年代後半まで、その馬ぐるみのシリーズは一般的な玩具屋で手に入れる事ができた。それくらい、オグリンの存在は競馬ファンの裾野を広げ、競馬そのものが単なる“ギャンブル”から総合的な“レジャー産業”のひとつとして認知される様になった訳である。

そもそも、アバンティーは、ファンシーグッズ…その多くは文房具の製造販売が主な会社であって、競馬とは無縁に近い状態だった。しかし、当時の社長が中央競馬馬主資格を取り、どうしても自前の馬を目の前で走らせたかった事から、地方競馬で活躍している有力馬を金銭トレードという格好で手に入れ、中央競馬へ送り込む計画を立てた訳である。その中に、丁度笠松競馬でデビューして、2歳時から古馬相手に強い競馬をするオグリンも加わる事になる訳である。しかし、元々の馬主である小栗孝一さんは、当時、中央競馬よりも地元の笠松競馬以外で走らせる気がなかった為、オグリンの中央競馬のクラシック登録をやっていなかったのである。コレが徒となって、いわゆる“裏街道”を歩まざる得ない状況となったのである。この事が後に、“テイエムオペラオーの奇蹟”といわれる“追加登録”の制度ができるきっかけになるとは、当時はつゆ知らず。
だけど、それはこの後の大活躍と空前のブームへの“起爆剤”になったのは、競馬史を調べれば一目瞭然で、後にタマモクロスとの直接対戦から始まる“葦毛最強伝説”に発展する訳である。そして、1988年の有馬記念で、ついに悲願のG1タイトル奪取を果たした訳である。それを祝して作ったのが、一番初期のオグリン馬ぐるみ…という訳である。ただ、販売経路がさっきもあった様にファンシーグッズ取扱の文房具屋や玩具屋に限定されていた事もあって、“競走馬ぬいぐるみ”としてではなく、単なる“馬のぬいぐるみ”として取り扱われる様に、同じオグリンでも、ゼッケンやメンコのカラーリングがバラバラで、たてがみの色も現役時の黒ではなく白になっていた。その影響で、去年のリニューアルまで、オグリンの馬ぐるみといえば、メンコを外した顔は“白いたてがみに黒い耳、ダークグレーの馬体に白い鼻”が“基本”となっていた。(現行バージョンも白い鼻だけは一緒なんだが…w)また、このデザインはウイニングチケットが発売されるまで、すべての馬ぐるみの“基本型”となり、生産工場も、一般(競馬場&量販店向け)が韓国製、クレーンゲームの景品用は中国製と分けられていた。(現在は全部中国製)ただ、この“競走馬グッズ”での儲けが、後にオグリンの競走馬生活に多大なる影響を及ぼすとは…
この続きは、また明日w