迷馬の隠れ家 はてな本館

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週刊ヒデボー通信 2010年8月8日号

チョリーッス、ヒデボーっす。今週もボクの独り言に、お付き合いください。
さて、大阪で起きた幼児の虐待死報道…いろんな事が言われていますが、根本的な事を言えば、未然に防ぐ事ができた事例でありながら、何故、このような悲劇が繰り返されたのかを考えた時、決して自分自身も無関係じゃないという事に、世間そのものがあまりにも気付いていないという事でしょうか。自殺したボクが言うのもなんですが、死ぬ前に、何らかの信号を発していながら、誰も気付いてくれなかったという“恨み”は、誰がどう言ったとしても報われる事などありません。

“気付いてもらえない”程、人の心というモノは、酷く傷付くモノなのです。気付かぬフリをするのも、気付かなかったのも、救済を求める者にとっては“見捨てられた”という感覚でしかなく、それ故に理解させる為に説明しても、聞き入れてくれないのも事実です。でも、もしも“信じられる者”がいつも傍にして、細心の注意を払っていてくれたなら、少なからずとも、最悪の結末を向かえずに済んだのかもしれないと言いますが、その“信じられる者”がいない…否、その立場の人が“裏切った”と思われた時、自分はどう思うのでしょう。
要するに、他者とのコミュニケーションが取りにくい世の中になってしまったが為の弊害なのです。どこまでも相手を“想う”気持ちが大切なのに、いざ、それを実践しようにも、何をどうして良いのかがわからない…だから疑心暗鬼での人付き合いが横行し、肩書きや資産といった“目に見えるモノ”以外は信用できないという風になってしまっているのでしょう。
でも、本当の意味で“信じる”という行為は、どんな結果であっても、悔いを残さないのが“本物”であって、何らかの恨みや悔いが残るのは、信じ切れていない証拠だと思うんです。そりゃ…相手の“本音”なんてのは、本人以外誰も知りませんからね。嘘をつかれてしまえば、そこでお終いです。それでも、相手との間…そこに目に見えぬ絆がある以上、最後までその信心を貫き通す勇気こそ、どこまでも相手を救済するという無限の想いと力を湧き出だす原動力だと思うんです。
今回の事件でも、民生委員や行政は、“プライバシー保護”という観点が仇となって、幼い子ども2人を“見殺し”にしたと言っても過言じゃない様な気がします。それに、母親も同じで、子どもを産んだからには…と頑張るのは良いんですが、いろんな悩みを抱え込み過ぎて、その“原因”を子どもに向けてしまったのではないでしょうか。いずれにしろ、自分の子どもを、自らの手で葬らなければいけなかった事程、悲しいモノはありませんし、精神的にズタボロになっていたのではないでしょうか?それ故に、“現実逃避”をする場としてホストクラブに通っていたのなら、これ程許せない事はありません。でも、その“一歩手前”でどうする事もできなかった行政や、周囲の大人達も、亡くなった子ども達からすれば、同罪なのです。
そういえば、民芸玩具に“こけし”ってのがありますよね。これ、なんで誕生したか知ってますか?江戸時代、特に東北地方では、飢饉が原因で子どもを養う事ができなかった農家の夫婦が、生まれたての我が子を手に掛け、葬った事に対する謝罪の形なのです。つまり、“こけし”が多い家庭は、その数だけ子どもを殺した事を意味していたんです。古代から、子どもを失った母親を慰める術として、土偶の様なモノは作られていた訳ですし、それと同じ数だけ、“家庭の事情”という理由だけで、消えた命もあるんです。それを忘れて、母親を責めてはいけません。むしろ、彼女を助けてやれなかった自分達自身を恥じるべきです。特に、ボクも耳が痛い話ですが、男性が“子育て”に無知・無関心であってはいけない…だって、ボクらだって、両親がいなかったら存在しないし、成長する事だってできなかったのですから…

今週は、ここまでにしておきます。では、また。