迷馬の隠れ家 はてな本館

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まじプラ特別編vol.2 人為的難病を考える(我侭と願望の狭間で…)


ども、マーティです。今月、4週に渡ってお届けした“人為的難病”に関するシリーズも、今日が最終です。今回のテーマで一番痛感したのは、事情や原因は違えど、共通して言えるのは、“繁栄”という願望に対して、それに似合うだけの“代償”がいかなるモノなのかという事です。つまり、できるだけ早く決着を付けたいと願う分だけ、その反動は大きいという事なのです。事実、アメリカでは原爆(核爆弾)は“太平洋戦争を早期解決へ導いた最終兵器”という概念があって、それに頼り過ぎたあまりに、周辺国家が核配備を急がせる要因になっただけでなく、それ故に朝鮮戦争ベトナム戦争で使用する事に躊躇した訳であり、戦後復興の名の下に、高度成長を成し遂げた日本は、その反動で水俣病四日市喘息といった公害が蔓延しただけでなく、今の不況を呼び込んだと考えてもおかしくない訳であり、一日でも早く…否長く生きていたいと願って新薬・新療法を求めるあまりに、副作用や医療ミスを招いたと考えると、これらは全て、人間が持つ純粋たる“我侭”だという事になるのです。

つまり、これらの犠牲者を生み出す原因も、更には加害者自身が罪の意識に乏しいのも、全ては豊さや平世安穏を望むあまりに引き起こされた“代償”であり、それは何時、誰が被っても、あるいは、その“加害者”として疑われても、おかしくないのです。
言い方を変えれば、その被害の数だけ、該当事例や対処法等が増える訳であり、それを活用する事で、同じ事が発生しても、被害を最小限で食い止める事ができるといって過言はありません。しかし、そういう部分で“有益である”と邪な事を考え、他者に対して情報を開示しなかったり、情報そのものを“取引材料”にして不用意に金銭授受が行われたり、それを巡って争いごとが起きれば、それこそ本末転倒です。そう、必要以上に欲望がある限り、本当の意味で救われなければいけない命が消える事を意味し、その犠牲の上でお金を稼いだとしても、結局はその被害者に対する生活支援等に、利益を還元せざる得なくなるのです。
去年7月と昨日のところでお話しした脳死移植もそうですが、移植用臓器を待っている人達にとって、一人でも多くの臓器提供者が現れる事を願うという事は、逆を言えば法的脳死者が一人でも多く出てくれる事を願っている…つまり“他人の不幸”を自らが望んでいるというジレンマと向き合わなければいけない様に、“人為的難病”は、その多くの場合は、繁栄と安穏を願う事反面、“自分以外の誰かが不幸になってしまえばいい”という概念をも生み出しているという事なのです。それが、今の日本が抱えている諸問題の“根元”でもあり、地球温暖化や資源不足も、世界中で“生き延びたい”と願う気持ちが、却って“自分は不幸を被りたくない”と逃げる方へ向かわせているのです。
つまり、自分が望む理想を実現させる為に、どれだけの犠牲と迷惑を他者に掛けているかを、あまりにも自覚していないからこそ、こういった悲劇は繰り返されるのです。それを踏まえた上で、相手を差別するのであれば、自分もまた、同じ様な施しを受ける事になる“覚悟”を決めなければいけません。それが、因果応報の原理です。

という訳で、今年の“特別編”はここで終了となります。来月からは、通常通りの更新になります。お相手はボク、マーティでした。