迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

敵を作り過ぎw

一部報道で、学会の“裏切り者”に叙勲を送るというニュースが流れた。これで、民主党政権は、事実上の“仏敵”とみなされる可能性が高くなる。ま、その方がこっちとしても気がラクな訳だがw
で、早速本題に入るが、なんでそこまでして、民主党政権は“庶民”をバカにしてるのか…って事だ。先に結論を言っちまえば、パフォーマンスは“庶民の味方”でも、やってる事といえば“自己防衛”であって、本気で国や国民の事など、まったく考えていないのが実情。もっと厳しくいえば、要するに“肩書き”と“地位”、そして“私的財産”さえ守れたら、後はどうでもいい…というのがこの政権の“正体”である。つまり、なんで汚沢のクビを完全にチョンパできないのか、なんで兄ポッポが自由に出歩いてはヘンな論調を学生に吹き捲くるのか…そこんトコをよ〜く考えれば、菅内閣そのものが、如何に汚沢の掌の上で“踊らされている”だけの存在なのかがよくわかる。

逆を言えば、こんな政権を“望んでしまった”のが、去年の衆院選であり、その“手先”として、経営難で藁にも縋りたい一心で、中身のないCMをバンバン流したマスコミ…という訳になる。
ただ、なんでそうなっちまうかといえば、要するに反日デモを口実に暴徒化している中国の若者の感覚と一緒で、程のいい“憂さ晴らし”の方法として、ネットで悪口雑言を書きなぐり、選挙でもマスコミの言葉と逆をやってみたり…といった事で、世間を騒がしているだけに過ぎない。言い方を変えれば、理由はどうあれ、既存の物事全てを“破壊したい”という衝動に駆られても、法律に振れてまで迷惑を掛けたくないから、こういう事で、自分の気持ちそのものを誤摩化しているだけに過ぎない。
そもそも、誰にでも“存在の意義”と“生きる喜び”は等しく存在する訳なんだが、何らかの拍子で“日常”が崩れない限り、その有難味と価値観に気付く事は、通常ではできない。そこんトコを詳しくやると、教学の範囲に突入すっから省略するが、要は、“当たり前だ”と思ってる事が、実は凄く特別な事なのに、毎日が同じ調子で、しかも何事もなく一日が過ぎている様に感じているから、そういう部分が麻痺してしまう訳である。感覚がないという事は…当然だが、その有難味も、何気ない変化にも鈍感になり、やがてそれは、感情から抜けてしまう訳である。そうなると、普段通りの挨拶をしてても、時として不愉快に思えたり、場合によってはムカつく態度として捉えられた挙げ句、いわゆる“ついカッとなって…”という状況になる。コレを如何に防ぐか…を、的確なカタチでアドバイスを発してるのが、宗教上での教えであり、それが纏まったカタチになったのが教典だったりする訳である。当然、学会員のみならず、日蓮系宗教団体に所属する信徒なら、誰しもが一度は目を通す“御書”も、その殆どが、そういった部分の指導が書かれた、信徒宛の手紙であり、仏教(法華経)を正しく理解する為の“論説文”でもある訳である。
つまり、哲学のその殆どが、何気ない日常でも、実はそのこと自体が“素晴らしい出来事”の連続であって、それをどう理解するかは自分次第である…という事を説いている。逆を言えば、そういう部分を、より多くの人々に理解してもらおうと考えるから、哲学者の多くが鬱になる訳であり、ハナっから一般庶民もそういう部分を理解できていたなら、宗教哲学など存在する必要性が無くなる…つまり、宗教そのものも存在する必要性が無くなるって事だ。だからこそ、不軽菩薩の存在とは、単純に相手を敬う事ではなく、人間が本来備わっている無限の可能性に対して、素直な気持ちで引き立たせる役目を負っている…と考えれば、多分理解できると思うw
で、敵を作りやすい人間とは、ぶっちゃけた話、寂しがりやなくせに人間不信…という、まったくもって鬱陶しい存在である。が、こういうのが一人でもいないと、煩わしさが無くなる反面、自分の存在意義そのものを忘れてしまいかねない。そう、寓話“泣いた赤鬼”もそうだが、自分が望むべき思想は、時として他者を傷付けたり、自分の大切なモノを失うリスクと隣り合わせであり、どんな結果になったとしても、それを選んだ自分自身の“責任”として、一切の批判を受け入れなければいけない。当然だが、志半ばで諦めた者には、その“責任”は免れても、故に後悔のみが残る。保身の為に、正面からぶつかる事を避け続けていても、結果として、大切なモノを失うだけで、守る事も、まして自分が望む理想を叶える事もできないまま終わる。逆を言えば、真っ向勝負で敗れても、自分が全力を出し切って、その結果なら諦めもつくし、自分自身の心が納得できる。それが、臆病者と勇者の違い。臆病な者には、最初は過去の栄光や財力だけで人々を魅了するが、やがてはそのメッキが剥げて、いつの間にか人は立ち去っていく。勇者の下には、最初は誰もついて行かない。けど、その行動で救われた者から順に、最後は世界中の人々から賞賛される。
学会員だけじゃなく、公明党の議員が叙勲を“辞退”する背景には、時の権力者の“邪な懐柔政策”に引っ掛かる事を恐れている事と、同時に“肩書き”だけでふんぞり返る事がない様にする“戒め”を意味している。ノーベル平和賞を“辞退”する理由も、実はそこんトコだったりする。真の意味で世界平和を望むなら、逆にアウトローな格好で地雷除去のボランティアをするか、自給自足で貧しい生活を細々とやっている方が賢明である。豊かさは、時として僻みを生み、平和である程、その精神は不安定である。それを是正するには、日々のちょっとした変化にも歓心を持ち、それを常に忘れない様、精進する事である。まさに“少しもたゆむ心あらば、魔たよりをうべし”である。