迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

やっぱりおかしい学歴社会…

貧富の格差が広がり、学力にも金銭的な面での格差が出始めている。だからこそ、有名大学の入試問題をいち早く入手して、それをカンニングしたくなるのは、大学受験を経験したモンなら誰もが一度は考える話である。が、ネット社会に対応していない、旧来の筆記のみで試験をやっているからこその弊害が、今世間を騒がしている。でも、オイラは考える。物欲や学歴に振り回された結果が、現在の格差の原因である事に、何故気付かないのだろうかと…

とはいえ、不正に入試問題を入手し、それを解いたメモを入試期間にWeb上に挙げること自体は、正直言ってズルであり、やっては行けないモンである。なぜなら、それで大学や予備校ってトコは“商売”をやっている様なモンであり、研究費や開発費なんて、個々の教授の懐に入る事はあっても、大学そのものに還元される事は殆どない。むしろ、そういった研究費を、むしろ立て替えてやる様な状況である。特に、火山の観測なんて、工業生産や社会に殆ど無関係扱いだから、その研究費が削減されて、通年観測ができないという状況だとか。同じ大学であっても、まして、同じ学部であっても、社会貢献度の違いによって、大学内でも貧富の差が出てしまう様になった訳である。もっとわかりやすく言えば、安易な競争社会が本質を見失い、本来重要な有事対策の分野が“当たり前”な学問過ぎて、誰も基礎から学ぼうとしなくなっていて、肝心な時に“誰も知らない”で被害が拡大して、その責任がたらい回しになる…という事。
逆に言えば、どんなに資金が潤沢でも、どんなに豊かな知識があっても、本当に“必要な時”に役に立たなければ意味がない。つまり、必要以上の財産など、所詮はあの世に持って行く事はできないのだから、散財した方が賢明だし、子孫に残す事は、後々謂れなき禍根を残すだけ。どんなに優れた知性でも、社会に出て仕事に使えないのなら、無駄な知識であるだけ。それをどう活かすかは、その能力を所有する本人以外、どうする事もできない。逆を言えば、本当に必要としている人が必ずいると、信じる心がそこにある限り、“人生のガラクタ”は“大事なモノ”に化けるのだ。
試験が終わって、次の受験生が教訓として、過去の入試問題を擬似的に受ける事は、いろんな意味でプラスになるけど、試験前に答えがわかってると、そこで“考える能力”は退化するだけ。ひいては大学生の学力低下を招くだけである。

教訓:不正をしても合格したいなら、最初から大学なんて目指すべきじゃない。本当に学びたいと心から思ってからでも、遅くはない。